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アジアの中の日本、その歴史観(2003年6月7日)
世界の、人類の歴史を考えたい
最近歴史についてよく考えます。いや考えたいと思うようになりました。日本の中の一地域の歴史、国民の歴史。ヨーロッパやアジアの歴史、世界の歴史、人類の歴史、そして、その中に流れ、移り変わってきた文明・文化(宗教・哲学・諸科学・芸術など)のありさま、その流れの最先端であるわたしたちの存在を。
その上で現在(激しく変化しているように見えるものごと)を、しっかりした視点でとらえ、行動していきたいと思います。そのためには、もっと若いころにすべきでありながら、し損なってきた、人間について考えるという作業を積み重ねたいと思っています。遅まきながら、今その意志と手立てが見つかっていることがうれしいのです。
藤田さんの視点も、わたしにとっては興味深いものであります。(パセリ・52歳)
責任を取れない国民性
さまつと言ってはいけないとは思うのですが、毎年、歴史教科書の表現内容を巡って議論しているのを横目に見ていると(子どもたちはそんなに念入りに教科書なんて読んでないと思うので、どちらでもあまりインパクトはないと思うのですが)、本質的な議論は、過去に対して、誰がどう責任を取り、それを引きずらない未来へと導くのか、ということだと思うのですが、言葉尻をつかまえた無責任性(侵略ではなかった、とか人体実験の真相を問わない、など)をつくづく思い知らされます。そして、責任逃れをしている間は、過去のしがらみからは逃れられず、先には進めない、その逸失利益は、さまざまなところで計り知れないものになっているような気がします。
銀行の処理、生命保険の予定利率引下げ、日本の尋常でない債務レベル、などなど、誰かが、どこかで決着をつけて、180度の方向転換、つまり、しがらみを絶ち、現実を見据えてビジネスモデルを組みなおしていれば、今の日本はここまで経済でも政治でも、落ちぶれることはなかったのではないかと思います。
外交でアジアをリード、政治家は今も夢見ているのでしょうが、自分の処理もまともにできない国にリーダーシップを求める仲間はいないと思います。(はるたいママ)
アジアの中の日本、その歴史観
「南京虐殺事件」「従軍慰安婦問題」といった事件が、本当に歴史観にかかわるような話なのかどうか、疑問にも思います。『The Rape of Nangking』という本が翻訳出版される際、右翼が妨害をして出版が中止になりました。わたしはAmazon.comで買い求め原書を読みました。仕事でフィリピンへ出張に行った際も、従軍慰安婦の体験をつづった本を手に入れ読みました。
日本は謝罪もせずに歴史観にかかわる問題か?と片付けようとしてきたので、問題が引きずられるのではないでしょうか? 『The Rape of Nangking』の中で、日本兵の狂気の行動の背景には日本人の「旅の恥は掻き捨て」という文化と精神構造が作用していたという一文がありました。Timelessな問題です。また、教育の問題があります。戦争中の教育を受けたおじいさんたちは戦争に対する反省ができません。だから失言を繰り返すのです。彼ら時代の汚物であるジェネレーションが引退しきらないうちはこの手の飽き飽きする発言は尽きることがないと思います。従軍慰安婦などは自虐史ではないと思います。きちんと日本が解決しないのが問題なのです。慰安婦に強姦をした元日本兵の謝罪の手記というのがあったら読んでみたいと思います。そういうものはありませんから。
諸悪の根源は、軍部であり、それを反戦という言葉で否定してかかることが、戦後の日本を肯定することにつながっていたのではないでしょうか。反戦は当たり前ではないでしょうか? イラク戦争に反対をしなかった日本がどうかしているのではないでしょうか?
中国や韓国から、何かというと「歴史カード」を切られる現状も変わらないと思います。そして、歴史カードを切られるうちは、日本が外交でアジアをリードすることなど、とても望めないと思います。韓国へ行って日本語を話せる老人と接すると、彼らには日本に対する特殊な感情があることがわかります。わたしは若い世代だし、危害は加えていないと解っても、日本人であるということで消し去れない恨みがどこかにあるようです。そういう感情は、いつまでも引きづるな、歴史カードを切るなと加害者が言うことではないと思います。
日本がきちんとした謝罪と反省を表明しないから歴史カードが切られ続けるのではないでしょうか?そんな日本にアジアで外交をリードする資格などあるのでしょうか? 日本の朝鮮併合が正しかったかという問題はありえないと思います。侵略は常に間違っているのです。藤田正美さんって、危険ですね。(みっち)
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