「帰ってきた少年A」(2004年3月13日)
過ちを犯したことを自分で受け止めるべき
わたしは、少年犯罪についてインターネットでさまざまな人の意見を目にしました。この事件に関してはいろいろな意見が書かれていて、事件の内容に触れるに従い、当時小さかったわたしにこの事件の報道を見せようとしなかった母の気持ちがわかります。多くの考えを目の当たりにして、真実がどこにあるのかわからなくなりました。結果、わたしの心にも数々の疑問が残ることから、真犯人がいるのではないかとも思えます。実際複雑な気持ちです。
数々の意見を見る前までは、仮釈放と聞き、驚き、更生したのか? 本当に?と思うと同時に、彼の一生に世間の目は付きまとうのだろう、自分だったらどんなに耐え難いことか、しかし少年だからといって許されるわけではない、犯罪者としてほかの殺人犯と同等に扱われるべきだと思いました。今彼はどんなことを思って生きているのか、何が彼を支えているのか、そう思います。罪を犯したものはどんな理由であれ、どんな年齢であれ、許されるべきではないと思います。罪を犯したものは反省し、その過ちを犯したことを自分で受け止めるべきです。題目とずれている気がしますが、これがわたしの意見です。(たんこぶ)
このような事件が起こらないような社会作りを
たしかに被害者遺族に対しての謝罪に対し、不満はあると思いますが、今回の判決、そして今後を見続け、悪い点などを改善、そしてこのような事件が2度と起こらないような社会づくりをしていくことが、亡くなられた方に対する償いになると思います。現状の少年法では、殺人を犯しても犯人の名前も知らされないようになっていますが、これを改めることを強く望みます。(mayu134)
命の大切さを学びとって
凶悪な事件を起こした息子を「家族」で支え合おうと懸命に自分を奮い立たせる父親の気丈さ。母親はただうろたえるだけでしょう。改めて「家族を率いる父親の責任」の重さ、この父親の心情が切々と伝わってくる手記。
A少年の家庭は、このような凶悪な事件を起こして始めて「家族」が「家族」である姿を蘇生していこうとしており、子どもを持つ親はみな、傍観者であってはならない、しっかり「家族」を見つめ考えてこそ、次世代にこのような事件を阻止する命を育めるのではないかと、教えられもしました。A少年は、この父親の率いる家族の元で改めて命の大切さを学び取って、心からのお詫びを言えるだろうと、彼の今後に陰ながらエールを送る気持ちにもさせられました。今一度追加の投稿をさせていただきました。(トントン)
謝罪の言葉が気持ちをほぐす
殺人までいかなくても、たとえば保育園で子ども同士がけんかをして、理由は何であれ、けがをさせた親のほうが、けがをした子どもの親に謝らないと、それだけで、やはりしこりを残したり、禍根を残したりするのは、現実に起こっていることです。
謝ったからといってけがが治るわけでもないし、保育園での出来事は親が関与できない、まったくの責任外だとしても、感情的な問題で、「ごめんね」の一言で、けがをした子どもの親の感情もほぐれるのが、現実の生活だと思います。それが殺人ということであれば、バッシングの度合いが上がることも、もちろんあるでしょうが、謝罪の言葉が気持ちをほぐす、というのもまた事実だと思います。(はるたいママ)
親が一緒に償うべき
犯人が成人ならば、家族は別と考えてもいいかもしれません。親からは独立していると理解させるのが成人だからです。でも、この犯人は犯行当時14歳という少年です。しかもまだ義務教育の最中です。親に責任があるのは当然ではないでしょうか。
罪を償うのは犯人本人しかでできないでしょうし、本人がしなければ、代わりにいくら家族が謝罪したところで遺族は納得しないでしょう。ですが、親に責任ある年代に犯した子どもの罪は、やはり親が一緒に償うべきだと思います。それが子育ての責任というものですし、親の監督責任ではないでしょうか。(ひろり)
子どもを持つ者として
子どもを持つ者として二つの視点から考えます。1.もし自分の子どもが被害に遭ったら犯罪者を殺しても悲しみは癒えないし、憎しみの情念は尽きない、被害者の親もまとめて憎むと思う。2.もし自分の子どもが加害者になったら、自分を責めるか? 子どもを突き放すか? 何事もなかったように社会生活を続けられるか?
2はとくにさまざまな苦しみを伴うだろうと思います。でも、少年犯罪の加害者保護者家族は、両親が事件前にも二人仲良く子どもへの教育をしていたのか? 多分、父親は教育と家事は奥さんに任せてご自分は仕事ばかりしていたのではないでしょうか? 藤田さんはお子さんがいるのでしょうか? そのお子さんの育児にどれほどかかわったのでしょうか? 世の仕事ばかりしていることを家族を省みない言い訳にするオジサンたちに問いたいと思います。(ミツチ)
親と子といえども別人格
酒鬼薔薇事件の場合、加害者が当時14歳の少年ということで、親の育て方の問題や監督不行き届きみたいな感情論が横行したのでしょう。しかし個人的には親と子といえども別人格であり、加害者家族が受けた苦痛には同情を禁じえません。もちろん罪を犯した本人は現実を厳粛に受け止め、罪を償わなければなりませんが、その家族までは……。加害者家族が周囲からの責め苦に耐えかね自殺してしまったとしたら。被害者家族だってそんなことを望んではいないでしょうし、二重の悲劇です。また、加害者のプライバシーを暴き、責め立てるようなジャーナリズムの報道姿勢にも大いに問題があるとも思いますね。(いまいくん)
「家族」を見つめたい
A少年の父親の手記には読み進むうちに流れる涙を禁じえませんでした。「冤罪ではないの?」。親はどこまでも子どもを信じたい信じていたいという、この切なさ。このような凶悪な事件を起こして、家族もまた、支えあう家族に成長していく姿。家族を率いるこの父親の責任感に、陰ながらエールを送らずにはいられませんでした。そしてこのような家族の元でA少年は必ず立ち直っていく、心も成長していくと思いたい。父親とは家族とは、ということも教えられる文面でもありました。そっとして見守る、その願いを叶えてあげたいものです。子を持つ親は、成長期の子どもはどの子も大きな危険性と裏腹であることも肝に銘じ、だからこそ「家族」を見つめたいものです。(トントン)
加害者の家族をサポートする制度は?
加害者の両親の手記は、わたしも非常に重い気持ちで読みました。罪を犯した自分の息子とともに生きていこうという、という重い決意に満ちていました。被害者をサポートするように、加害者の家族をサポートする制度や取り組みはあるのでしょうか。(remy)
いつの日にか心の平安が訪れますように
この仮退院のニュースを聞いて思ったことは、犯罪被害者やその家族の心を癒すという仕事は、けっして裁判や刑罰の仕事ではないのだということです。このケースは少年事件でしたから、刑罰の重さから言えば、けっしてご遺族が納得できる量刑ではありません。そもそもそんな刑罰が存在でき得るのか。たとえ死刑でも、加害者の家族が自殺しても、なぶり殺されたとしても、けっして被害者側が癒されることはないと思います。刑罰とは個々の犯罪に対してその社会が示す規範の一つに過ぎないからです。
加害者には本当の更生を強く望みますし、そうあってほしいと祈っています。家族には真剣にそのサポートに取り組んでほしい。そしてご遺族に、何かの方法で、いつの日にか心の平安が訪れることがありますようにと、これも祈るばかりです。(ぱりじょな)
子育てはそれほどまでに重い
この少年Aは、社会で再出発するにあたり、新しい名前を与えられ、架空の経歴を与えられると聞きました。つまり、これまでしてきたことを封印してリセットしてしまうんです。他人になりすまし続けなければならないのです。罪など犯していない人間を完全に演じ切ることで、償いの意識を薄れさせることになりはしないか、それが気がかりです。
更正することが償いと言われますが、更生することと過去を封印することとは矛盾しているような気がします。人を殺した過去は厳然とした事実としてあるのだから、両親がしっかり受け止め、一生かけてともに償うという意識が芽生えたことで救われる思いがしました。命は、そして子育てはそれほどまでに重いのです。たしかに世間、マスコミの圧力は行き過ぎでしたが、少年法の壁に対する怒りの矛先はそこしかなかった悲劇があります。まして加害者にとって、贖罪意識を持たざる親の元での再出発などあり得ません。「贖罪意識を持つのはある意味で仕方がない」という表現には驚きを禁じえませんでした。(トトロのとなり)