「靖国」に祀られた人々
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2001年8月18日
前回、小泉首相の靖国参拝問題について書きましたが、いろいろご意見をいただいたので、今回も靖国問題を取り上げてみたいと思います。
なぜ日本の首相が靖国に公式参拝すると問題になるのか。その理由は、靖国神社の歴史です。詳しくは靖国神社のホームページ(www.yasukuni.or.jp)を読んでいただきたいのですが、この神社は要するに天皇のために戦って亡くなった人たち(軍人・軍属)を「神」として祀ってあるのです。その総数は246万人(正式には人ではなく柱と呼びます)、そのうち太平洋戦争の死者は200万人ちょっとです。
日本人の太平洋戦争における死者は310万人ですから、100万人ほどの人は戦争の犠牲者ですが、祀られていません。祀る基準が「天皇のために戦って死んだ」というところにあるからです。この神社にはいわゆる戊辰戦争以降の戦死者(一部にはそれ以前の人も含まれています)が祀られているのですが、天皇のために戦ったのではない人々、つまり徳川幕府についた人々は祀られていないのです。
戦争に赴く兵士たちに「死んだら靖国で神として祀られる」と言って送り出した神社なのです。占領軍によって国教分離がされるまで、靖国神社は陸軍省・海軍省の所管でした。その意味で、戦意昂揚という役割をこの神社が担っていたといえます。
だから首相の靖国参拝は、周辺諸国や欧米の神経を逆なでするのです。これに対して全国戦没者慰霊祭は、国と宗教という問題はありません。それに310万人といわれる戦争で亡くなった人たちすべてを対象にしています(もちろんいわゆる戦犯の人たちも慰霊の対象となっています)。
あの戦争が間違っていたのかどうか、それは後世のわれわれが判断すべき問題です。でも間違っていたと思うにしても、あの戦争で命を落とした人たちまで間違っていたことにはなりません。国家とは、個々の意思に関わりなく、国民に犠牲を要求できるものだからです。ですから犠牲者を悼むことは当然です。しかしその哀悼の表し方、それも国の指導者ともなれば、歴史的な経緯から逃れて、個人の自然な気持ちというだけではすまされないのも事実です。