憲法9条をめぐる本音と建前
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2001年10月20日
毎週、テロ事件に関連するとても真摯なご意見をいただきます。同時多発テロに加えて、アメリカでは炭疽菌騒動も、どうやらテロではないかという疑いが濃くなっています。そのうち日本でも同じような事件が起きる可能性があります。というわけで、今週もテロに関連する話題です。
テロ対策特別措置法が衆議院を通過しました。これで従来よりも自衛隊の派遣に柔軟さがもてることになります。いわゆる集団的自衛権(一国が攻撃された場合、同盟国は自国が攻撃されたと受け止めて参戦する)は、憲法違反ということになっていますが、この新法は、この集団的自衛権に一歩踏み込むものと考えられています。
私は、日本が平和ボケであると書きました。それに対して「平和憲法」がなぜ悪いのか、という趣旨の反論をいただきました。この問題について今週は書いてみたいと思います。
憲法9条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する」と書いてあります。この憲法によって、日本は近代の世界の歴史のなかで例のない国となりました。この憲法が理想主義的にすぎるのか、それとも近代国家ではなく、現代国家あるいは未来国家として壮大な実験をしているのか。ここが議論のひとつの分かれ目です。
日本は、絶対平和主義を追求する「超現代国家」であると言えたら、間違いなくすばらしいことです。しかし実際には1945年以来、日本の防衛を担当してきたのはアメリカです。もちろんそれはアメリカが「好意」でやってきたのではなく、彼らにとって必要だったからです。
日本がその理想主義的憲法をまがりなりにも守ってこれた(自衛隊が戦争をしたことはありません)のは、アメリカの武力があったからで、そこで本音と建前が違っているのです。この現実を直視して、それでもこの理想主義的な憲法を守ろうというなら、日本自身がどうやって平和を達成するのか、アメリカや韓国、中国との関係をどうするのか、あらためて考え直さなければなりません。
僕が言う「平和ボケ」とは、「今まで平和だったのだから、これからも憲法を守っていれば平和だろう」という考え方です。もし日米安全保障条約がなかったら、これまで平和であったかどうかはわからないのです。あの9月11日のテロ事件、そして炭疽菌事件は、安全がいつでも脅かされうるという事実を目の前に突きつけました。われわれが享受しているこの平和を、どうしたら守れるのか。一度、足元をゆっくりと見直して議論すべきだと思います。またたくさんのご意見をお待ちしています。