メディアを規制するのは誰だ?
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2002年4月27日
いわゆる個人情報保護法案や人権擁護法案の審議が衆議院で始まりました。メディア各団体はこの法案に強く反発しています。人権の擁護、個人情報の保護は、もちろん大事なことですが、この法案が成立すれば、報道や表現の自由を制限されかねないからです。
私も、メディアの一員として、報道の自由を侵しかねないこの法案には強く反対します。ただここではその理由には触れません。私が反対する理由も、新聞などで書かれていることと大きく変わりません。自由なメディアは、やはり民主主義の基本であると思います。国民には知る権利があり、その知る権利を保証するひとつの手段はメディアだからです。その意味で、政府がメディアを規制できるようにしてはなりません。
しかしメディアにもいろいろあります。良質なメディア、悪質なメディア。上品なメディア、下品なメディア。当然のことながら、良質なメディアを残して悪質なメディアを規制してもいいではないか、という議論もありえます。たしかにそのとおりかもしれません。でも、良質と悪質を誰が判断するのでしょうか。そこを政府が判断するとなると、恣意的な定義によって政府に都合の悪いメディアを圧迫することにもなりかねません。それは歴史が証明してきたことでしょう。
現在の日本には、みなさんが辟易するようなメディアもあります。こんなメディアが民主主義を守っているとは、とても考えられないようなものもあります。でもそういったメディアを淘汰するのは、あくまでも読者や視聴者でなければならないのです。メディアがもし悪いとすれば、それは読者が悪いのです。こう言っては言いすぎでしょうか。くだらないものは見ない、読まないというだけでなく、いいものを育てなければならないと思います。
もちろんメディアの側にいる私たちも、いかに自分のメディアを良質なものにするか、日夜悩んでいるのです。読者が何を求めているかだけでなく、大事な問題だと思えば、とことん追求します。たとえそれが売れなくても、社会のために必要だと思うからです。
そういったメディアの姿勢を読者や視聴者がどう評価するか、それこそがメディアに対する最も厳しい「規制」です。もちろん書かれたもの、放映されたものだけでなく、書かれなかったもの、あるいは放映されなかったものに対する評価も下されなければなりません。メディアが「自主規制」して情報をコントロールすることを防ぐために、この「書かれなかった」ことに対する評価はどうしても必要です。
そのような読者の審判は、私たちも甘んじて受け入れます。しかし権力に審判させてはなりません。なぜなら権力は常に自分の都合のいいように情報をコントロールしたがるからなのです。そして権力の思うままにさせたら、何が起きるか。それは世界の歴史をひもとけば容易に想像がつきます。それでもおそらくみなさんは日本のメディアについていろいろ不満や疑問をおもちのことと思います。日ごろ感じている「ここが変だよ、日本のメディア」というテーマで、みなさんのご意見を書いていただければ幸いです。