瀋陽事件の顛末
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2002年5月25日
瀋陽事件が決着しました。亡命を図った北朝鮮の家族5人は、フィリピン経由で韓国に入りました。そしてわが外務省は、5人について結局何の関与もできないまま、終わってしまいました。領事館の不可侵権が侵されたという日本側の主張は、継続して中国と協議するということになっていますが、何の成果も得られないでしょう。
そもそもこの問題は、外務省の保身のための嘘から始まったところに小泉政権の誤算がありました。副領事は、中国の警官に対し、同意を与えたのか与えなかったのか。大使館に突入しようとした家族を取り押さようとした警官が、敷地内に入った様子を見れば、同意を与えていなかったのは明らかな事実です。しかし建物の中まで入った男を連行するのに、領事館員が同意していないというのは、いかにも不自然でしょう。「亡命の意思」を示す英文の手紙を「意味がよくわからなかった」から突っ返したという説明も、中国側から指摘されて、しぶしぶ明らかにしました。
都合の悪いことを「報告しない」という姿勢は、「報告しない」ことは「嘘をつく」のと違う、という論理に基づいています。これは誰が見てもおかしな論理です。たとえば商品を買って、こういう使い方をすると有害です、と書いてあるのはなぜでしょう(たとえばトイレの洗剤やかび落としの洗剤)。有害だという事実がわかっているから、そこから発生する被害を防ぐために書いてあるわけです。もし注意書きがなくて、消費者に被害が出ればメーカーは補償しなければなりません。
ところが役人には、この「補償」という概念がありません。農水省の狂牛病に関する対応を思い出してください。まともに対応していればそもそも日本で狂牛病が発生するのも防げたかもしれないのです。ところがヨーロッパからの警告にも耳を貸さず、「日本は大丈夫だ」の一点張り。あげくの果てに、ご親切にも警告してくれたヨーロッパの当局に抗議するていたらくでした。この判断がたいへんな誤りだったことは、その後の展開を見れば明らかです。しかしこの誤りについて明確な責任を誰が取ったのでしょうか。500億円にものぼる税金が所轄官庁の誤った判断の結果として費されたのですが、誰もこの件について補償を要求されていないのです。
民間の企業には「製造者責任」という言葉があります。消費者に物を売るということは、消費者を大事にしなければ生き残れないということでもあります。しかし官庁には「製造者責任」という言葉はありません。それは官庁には消費者、つまり国民大事という概念はなく、「お上」意識しかないからです。お上は民を従わせればいいというわけです。国民の側にも、実は「お上」という意識があります。ここを根底的に変えなければ、官庁のお上意識も変えられないのです。もうひとつ付け加えておかなければいけないことは、国民が主人であるということは、国民にそれだけの責任も要求されるということです。つまり、あらゆることについて、最終的な「説明責任」を求められるのは国民ということにもなります。その責任と権限があってこそ、民主主義が守られます。愚痴を言ったり、馬鹿にしたりするだけでは、国民の責任を果たしたことにはならないのです。瀋陽事件も、そういった目で見返してみると、難民問題などについて違った側面が見えるかもしれません。