底なし沼状態の企業スキャンダル
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2002年8月31日
よくもまあ次から次へと出てくるものですね。企業っていうのはそんなに悪いことをいっぱい隠しているんでしょうか。東京電力の原発点検報告書の改ざん疑惑はそんな私たち消費者の気持ちに追い討ちをかけるものでした。数年前から途切れなく始まったこの企業スキャンダルは、まるで底なし沼のようです。
もともと日本の企業は高い倫理観に支えられていたはずなのです。「アメ車を買ったらコカコーラの空瓶がころがっていた」とか「タイ米を買ったらネズミのふんがあった」とかいう噂は、その対極として「日本ならそんなことはないよね」という見方があったわけです。
ロサンゼルスの大地震で高速道路が崩壊した現場を見にいった関係者が「日本だったらこんなことはありえない」と言ったそうですが、神戸の大地震で高速道路が横倒しになったのはその1年後でした。そして倒壊した現場を調べてみたら「手抜き」が見つかったのです。
もちろんこうした疑惑が次々に発覚するのは主に「内部告発」があったからです。かつてはこうした内部告発は「裏切り」という感覚が強かったのですが、今では必ずしもそうではなくむしろ「正義」と受けとめられるようになっているのかもしれません。そうだとすれば、ある意味で社会は健全な方向に向かっているとも言えるのでしょう。
なぜなら企業で働いている人は「会社人間」である前に「個人」であり「消費者」であるからです。自分の会社が危険な商品を売っているということになると、その人自身はもとより家族や友人がとんでもない被害をこうむる可能性があります。会社の中でそれを警告しても通らない場合、その人はマスコミなどの力を借りて訴えようとするでしょう。そこに個人的な利害(たとえば上司の足を引っ張ってやろうとか)が絡んでいなければ、「内部告発」は社会的にありがたい行為なのです。
おそらく日本社会の問題点のひとつはここにあります。企業や役所で働いている人のどれだけが、「組織の人間」である前にまず「個人」であるという感覚をもっているのでしょうか。企業などに電話をかけて名前を名乗ったとします。ほとんどの場合、「どちらの○○さんですか」と問い返されます。この場合、重要なのはその「どちらの」であって「○○」という名前ではないのです。
そして電話をかける人も、名前だけ名乗る人はほとんどいません。そして名乗る順番は「××の○○」です。英語では名乗る順番が逆です。名前が先で組織が後になります。もちろんこれは習慣の問題であり、それが社会の在り方を決めているとは思いませんが、アメリカの個人主義的な傾向を考えると、なんとなく象徴的だと思いませんか。
つまり私たちは社会を構成する個人であり、組織で働いているのと同時に、消費者でもあるのです。そのバランスをどこで取るのかを考えた場合、少なくともこれまでの日本の社会では「組織」の側に偏っていたのではないかと思うのです。その振り子の針をもうちょっと個人とか消費者としての自分に戻せば、社会のありようも企業のありようももう少しましになるのではないでしょうか。
たとえば狂牛病にしても、農水省のお役人が「自分も自分の家族にも危険な牛肉を食べさせたくない」と考えたら防げたかもしれないと思うのです。日本ハムの役員にしても「自分の会社が受け取る補償金は、自分たちが払った税金なのだ」と思ったら、ごまかすこともなかったかもしれないじゃないですか。
医者にしても、自分自身が患者になったとき初めて患者の気持ちがわかるといいます。医者が患者になる確率はそれほど高くないかもしれないけれども、会社員や官僚は例外なく消費者なのです。だったら消費者の気持ちがわからないなどということはありえないでしょう。単にそこを無視しているか、それとも鈍感で気がつかないとしか思えません。
内部告発をした人たちがどのような動機でやったのかわかりませんが、社会の在りようとして考えると、これは「進歩」だと思います。身の回りにおかしなことはいっぱいあります。もしそれが社会に害悪を流すようなことだったら、あなたは告発しますか。