オウム裁判から湧き起こる司法、警察、そして人権への疑問
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2003年4月26日
1995年の地下鉄サリン事件などで起訴されているオウム真理教・元代表の麻原彰晃(本名・松本智津夫)被告に対して、東京地検は死刑を求刑しました。わたし自身は、麻原被告がオウム真理教の起こした一連の事件の首謀者であると思っていますし、27人の方が犠牲になったこと、さらに、多くの方がさまざまな後遺症にいまだ苦しんでいることを思えば、死刑が妥当とも考えます。
腑に落ちない長期裁判
それにしても、初公判から7年。どうしてこんなに時間がかかるのか、そこに納得がいきません。今回は検察側の求刑ですから、続いて弁護側の最終弁論があり、そして判決が出るのは年明けとされています。つまりは8年近い年月が費やされているのです。弁護側は証拠が薄弱であるとして無罪を主張しているのですから、判決が出れば控訴するでしょう。
高裁でも有罪判決が下れば上告するでしょう。ということは、まだ延々と裁判が続くわけです。そしてその間、かなりの金額の税金が使われるわけです。裁判官や検察官はもとより、被告を収監するための費用、などもろもろを考えると、納税者としてどうも釈然としません。
被告に問われる道義的責任
もちろん裁判はできる限り「冤罪(えんざい)」を防ぐために慎重の上にも慎重を重ねたものでなければなりません。しかしながら、この事件に関しては、教団の中で絶対的な権威であった麻原被告が無関係であったとは言えないと思うのです。万が一直接指示したことがなかったとしても、弟子がそうした行為をしでかした道義的責任は免れません。もしそうならば麻原被告はそのことについてだけでも、裁判で自分の考え方を開陳しなければならなかったはずです。
それが裁判では奇妙な行動を取ったり、ダンマリを決め込んだり、とおよそ指導者らしからぬ振る舞いが目につきます。つまりは責任逃れに終始しているわけで、それだけでも許しがたいと感じてしまいます。もちろんこれが「感情論」であると言われればその通りかもしれません。いくら弟子が何人も有罪となり、教団自体が「過去の過ち」と認めていても、麻原被告を有罪にするための証拠が十分でないと主張することは法律的にはできるのでしょう。
尊重するのは誰の人権?
弁護側の主張は、証拠が不十分なのに有罪にするというのは、将来に禍根を残すものだという点でしょうが、おそらく被告は弁護団とも十分な話し合いをしていないはずです。つまり弁護側は、検察の主張は事実ではないということを論証するのではなく、事実ではないかもしれない可能性を論じるだけなのです。被告本人が否定も肯定もしないものを弁護するというのは異常なことです。そんな状況のなかで人権を守るという一般論を振り回されるのはどうも納得できません。
この事件は、カルト宗教集団による一般人をターゲットにしたテロという想像を絶するものでした。そしてその宗教集団が名前を変えていまだに存在し、宗教活動をしていることに疑問も感じます。あの事件は、教団がよく口にする「過去の過ち」などといいうなまやさしいものではなかったはずです。それなのに、宗教集団であるために、国も何か及び腰で対応しているように思えます。地下鉄サリン事件も、もっと早い段階で警察があの組織に手を入れておけば、防ぐことができたのではないでしょうか。
たしかに宗教集団に国家権力が介入することが簡単に行われてはなりません。しかし宗教の名の下にテロ活動を行う危険性があるときは、人権派の人々やマスコミの批判を恐れて何もしないよりも、あえて早めに行動を起こしてほしいと思うのはわたしだけでしょうか。そういえば、どこぞの政党の人権派の代議士は、あるテレビ討論で「地下鉄サリン事件を起こしたさる宗教団体」とか言ってました。有罪が確定するまでは、名前を特定してはいけないからだそうです。
原則論は大切だと思いますが、だからといってここまで明らかになっている事件をそういう呼び方にするのは、犠牲となった人たちの神経を逆なでするものだと思います。このような原理主義者的な人々の存在そのものを否定するわけではありません。こうした存在が大切な場合もあるからです。それを認めた上で、オウム真理教に関しては、私は麻原被告の有罪は免れないと思うし、教団が現在でも活動しているのはおかしいとも思うのです。