勇気ある判決の一方で
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2003年11月1日
トップの「使用者責任」を問う判決
広域暴力団である山口組の組長に賠償命令が下ったという新聞記事が出ていました。下部組織の抗争のとばっちりを食った警察官の遺族が訴えを起こしたもので、大阪高裁は山口組組長というトップの「使用者責任」を認めて、組長にも賠償責任があるという判決を下したのです。
裁判の経過を詳しく追っているわけではないのですが、直接手を下した犯人や直接のボスのみならず、その組員が所属する組織の上部組織のボスにまで責任が及ぶという判断は「画期的」なものでしょう。昔のアメリカの映画「アンタッチャブル」を思い出します。シカゴの街に跋扈(ばっこ)するギャングに手を焼いた政府は、財務省所属の「捜査部隊」を創設し、それが税金でギャング組織を締め上げるというものです。
日本でも広域暴力団をどう取り締まるかは大きな問題です。先日聞いた話だと、東京の繁華街(たとえば銀座など)もいわゆる広域暴力団のシマ割りがきちんとできているんだそうです。暴力団は時々、力を誇示しようとして抗争事件を起こし、それに巻き込まれて一般市民にも犠牲者が出たりします。
暴力団の弱体化に道は開かれるのか
今回の判決(まだ高裁なので最高裁でどうなるかはわかりませんが)が前例になれば、刑事的責任は問われないトップの組長も、民事的責任が問われることになり、暴力団にとっていちばん重要な懐が痛むことになります。実際、新聞報道でも民事事件で訴えられるという意外な展開になってから、下部組織の対立抗争は減っているのだそうです。つまり巻き添えになった市民から次々に賠償責任を求められては、暴力団もたまらないというわけです。
だからこそ山口組も必死で防戦していて、判決を不服として上告するようです。それでもこの高裁判決は暴力団の弱体化にも道を開く画期的なものだと思います。
物言わぬ被告人。歯がゆい裁判
裁判といえば、オウム真理教の松本智津夫被告をめぐる裁判はいよいよ最終弁論に入りました。弁護側は一連の事件は弟子の暴走であるとして無罪を主張しています。でもこれはヘンな話です。松本被告本人は裁判の場で、何も語りません。つまり弁護団がいう「弟子の暴走」は松本被告の主張であるのかどうかわからないのです。
松本被告本人はどう言っているのかと聞かれて、弁護団は「ときどき笑っています」と答えていましたが、こういう発言を聞くと、弁護士の感覚を疑ってしまいます。なぜなら、オウム真理教事件は戦後日本で最悪といってもいいテロ事件。しかも実行犯の裁判では続々と死刑などの極刑が確定しています(つまり被告が上訴していないのです)。にもかかわらず、「教祖」が自分には責任がないと言って逃げ回ることは許されないし、それを弁護する弁護士が「笑っています」などという言葉を発してしまうことがどれほど異常なのか、弁護団すらも気付いていないのではないかと思えるからです。
被告人としてまともに反論どころか、しゃべりもしない人間の裁判を延々と続けることの空しさを弁護団も感じ取るべきではないでしょうか。こんな裁判はさっさと打ち切って有罪を宣告してしまえ、という乱暴な意見が説得力を持ってしまうような雰囲気をつくっているのは、松本被告本人もさることながら弁護団にも責任はあると思います。もちろん裁判長の訴訟指揮にもやや疑問を感じます。大阪高裁の勇気ある判決で快哉(かいさい)を叫ぶ一方で、この松本被告の裁判に歯がゆさばかり感じるのは僕だけでしょうか。