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「反米」で済ませていいのか? 2002年9月14日
理性でもって考え、未来を見つめる努力を
今回の問題は人類にとって大きな事件だと思います。なぜなら、ここ数年間のことが発端で起こった訳ではないからです。根深い歴史とそれによる感情のもつれに起因するのですから。争っているのは今現在の人間ですが、感情を揺さぶるほどの思想なり、生き方というものは、その土地にずっと根付いているものだからです。それらを前提にお互いの会話や、それぞれの違いを認識し、いかに対話をしていくか、これを考える必要があるのではないでしょう。
ただ、これは過去の無知ゆえの領土争いではない。さまざまな国の人たちが犠牲になり、広く大きく飛び散った火の粉となるのです。だからこそ、国益うんぬんより人としての良心に問いかける必要があるのではないでしょうか。もちろん国益を必要とする考えは根深く、人類が大きくグループを広げれば広がるほどに必要かくべからずのところはあるのでしょう。しかし、現在の経済の歩みを見ていると、けっして過去に戻してしまうような行動をとるべきではないと思います。一人ひとりが自由に発言できる現代において、理性でもって考え、未来を見つめる努力を必要としたいものです。(匿名)
国家という概念の終焉のはじまり
「闇雲の反米感情だけでいいのか?」というお話でしたが、私は、アメリカ人は頭の単純なカウボーイばかりではない、と思っています。同時多発テロをテーマに、世界中から選ばれた監督たちが、オムニバスの映像作品を作り上げました。『セプテンバー11』、私が一番感動したのは、アメリカのショーン・ペン監督の作品でした。それは、ダウンタウンにある、世界貿易センターに遮られ陽の当たらない安アパートで、連れ合いを亡くして一人暮らしをする老人の日常を描いています。世界貿易センターに職場があるエリートビジネスマンでもなく、ニューヨークに親類や友だちがいるわけでもない、私のようなごく普通の日本人が、9.11の出来事に対峙した感覚に一番近いような気がするのです。世界貿易センターが崩れ落ちていくことによって、老人の部屋に初めて陽が射し、鉢植えの花が開き、亡くなった細君にも見せたかった、と悔いる老人の姿は、大統領がどんなに自由や民主主義を荘重に謳い上げようと、アメリカの中にある貧しさを確実に描写していました。そして、そこにアメリカの知識人・表現者の、最も良質な部分を垣間見たように思いました。
それに引き換え、がっかりしたのは今村昌平監督の作品でした。あまりにも、どっぷりと自分の世界に浸り切っていて、『セプテンバー11』というテーマを、どこかに忘れてきてしまったように見えました。それは、アメリカに敗れ、生きていくため、国を成り立たせるために、疑問や困惑を覚えながらも、アメリカ的価値観を身に付けざるを得なかった、戦争経験者の愚痴のようでした。背後に原爆投下を表現することで、アメリカに皮肉の一つも言い、それで何事かが表現できたとするのは、ただの思い込みに過ぎないような気がします。9.11の本質は、国家ではない人間の集団が、国家に対して戦争を仕掛け、歴史上初めてそれ相等の戦果を得たことにあるのです。つまり、9.11は、国家という概念の終焉のはじまりなのです。(守隨秀章)
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