「日本は特殊だから」はもう通じない
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2001年10月6日
テロ組織に対する戦いは、いよいよ直接的な軍事行動をいつ始めるのか、という段階に差しかかっています。私自身は、大がかりな作戦を展開するにはまだ時間がかかるのではないかと思っていますが、こればかりはわかりません。
各国政府による反テロ戦争に、日本がどのように参加すべきか、現在国会で激論が戦わされています。「後方支援」の中身とは何か、「武器・弾薬」の輸送は可能なのか、難民支援に飛ぶ予定の自衛隊機は「紛争地域」に派遣されるのか、などなど。
こういった議論は、日本が国際社会の一員としての責任を果たすために、必要なものです。でも議論の焦点がぼけていると感じるのは私だけでしょうか。たとえば「後方支援」なら、それは戦争行為ではないとするような論理です。
後方支援であっても、「同盟軍として参加している」ことに変わりはありません。後方支援だからオーケーという考え方は、海外から見ればおかしな議論です。
集団的自衛権に関する議論もそうです。日米同盟が存在して、アメリカは日本が攻撃されたらそれはアメリカに対する攻撃と見なします。だから日本の防衛に手を貸す、という論理で日本に基地を保有しているわけです。では、その逆にアメリカが攻撃されたら日本は手を貸さなければいけません。日米同盟は双務(お互いに同じ義務を負う)条約であるからです。ところがこれまでの憲法解釈では、集団的自衛権の行使は憲法違反であるということになっています。つまり日本の立場は矛盾しているのです。
とかく何事でも「日本は特殊だから」という言い訳がまかり通ってきました。たとえばスキーの輸入に関して「日本の雪は欧米と違うから、輸入スキーは日本に合わない」とか、牛肉に関しては「日本人の腸は長いから、牛肉は合わない」とか、噴飯ものの言い訳が堂々と国同士の交渉の場で出てきました。狂牛病に関しても、餌として利用されてきた肉骨粉の禁止が遅れたのは、日本は「狂牛病と無縁」だという根拠のない思いこみがあったからです。
いわゆる「日本特殊論」はいろいろなところで顔を出します。それは、日本の立場を外国に説明できないときに、往々にして「最後の逃げ場」となるようです。逃げられなくなると、最後は「ガイアツだからしようがない」といって、ようやく日本の政策が変わる。こう言っては言い過ぎでしょうか。
1945年の敗戦以来、日本は海外に対する「説明責任」を怠ってきたと言うこともできるでしょう。外交はもとより、防衛についてもそうです。説明責任がないから、問題が起きればひたすら頭を下げて嵐を避けてきたわけです。教科書問題、歴史認識問題などがその例です。その間に経済力だけが突出してきたのが日本にとっては不幸でした。経済力が大きくなれば、必然的に「説明責任」を求められることが増えるからです。そこで飛び出してくるのが「日本特殊論」です。
でもいつまでもそんなことを続けているわけにはいきません。日本としての考え方を論理的に説明することを実践していかなければなりません。独り立ちできる国になること、これがいま日本や日本人に求められているのではないでしょうか。