デジタル放送開始。停止する判断、押しやられる責任感
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2003年11月29日
始まる地上波デジタル放送
12月1日から地上波デジタル放送が始まります。いよいよ日本も本格的に多チャンネル時代に突入というわけです。デジタル放送によって従来の受信機が使えなくなるという問題はさておき、多チャンネル時代って本当に役に立つんだろうかとクビをひねってしまいます。いちばん気になるのは、視聴者が見たい番組がそんなにあるんだろうか、ということです。
現在の放送でさえ、いかがなものか、と思うような番組は山ほどあります。テレビ関係者ですら、現在の番組のあり方について苦言を呈する人もたくさんいます。「視聴率稼ぎのために、人気タレントを使ったバラエティ番組ばかり作るのはテレビの堕落だ」という批判を、たくさん聞きます。
停止する判断
そこに、さもありなんという事件が発覚しました。視聴率第1位を誇る日本テレビの社員が、視聴率を操作していたというのです。視聴率が稼げないと、給料も下がるというので、なりふり構わず視聴率の対象となっている家庭に、当該番組を見るように依頼していたそうです。視聴率を頼りにスポンサーが番組を選ぶわけですから、そこを操作されては、スポンサーは何を頼りにすればいいのかわからなくなります。だから大問題になったわけですが、実はここにはもっと重大な問題が隠れていると思います。
番組のいいか悪いかをスポンサーとして判断するのではなく、視聴率が高い番組はいい番組だという前提があります。これは言ってみれば、スポンサーの判断停止であるとも言えます。つまり、視聴率と言う客観的な数字があるから、それで会社の上司を説得できるというか、上司に問い詰められたときに言い訳ができるという考え方なのです。
スポンサーがこういった姿勢であると、民放からどんどん良質の番組が消えて行きます。現に、わたしの周辺には、民放はニュース以外ほとんど見ないという人も多いのです。時間とカネをかけたドキュメンタリーはNHKにかたよるという好ましくない傾向も生まれてしまいます。NHKが悪いと言っているわけではありません。いろいろな放送局がさまざまな観点からドキュメンタリーを作ることが、ものごとの見方の多様性を確保するために重要だと思っているのです。
押しやられる責任感
テレビのあり方に疑問を投げかけるもう一つの事件は、TBSの「石原発言ねつ造報道事件」でした。TBS側は「事故であってねつ造ではない」という見解で押しとおしています。石原知事が否定形でしゃべったことを、最後の「ない」をカットして肯定形で放送したというものです。発言内容を引用するに当たっては、ダブルチェックが当然行われるものだし、あれだけいろいろなマスコミを通して流れたことと180度違う内容が流れているのに、放映中でも誰も気づかなかったというのが信じられません。とかくセンセーショナルに扱いたがるテレビ局の性癖がとんでもないところに出たというべきなのでしょうか。これも視聴率という魔物のなせるわざなのかもしれません。
テレビはきわめて影響力の大きな媒体です。その影響力を、われわれ雑誌の編集者はいつもうらやましく思っています。それだけにテレビ局は自分たちの作る番組(ニュースであれ、ドキュメンタリーであれ、あるいは娯楽であれ)にいっそうの責任感をもってもらいたいと思うのです。もちろん責任感が欠如している人が多いとは思いません。でも視聴率ばかりに追いまくられると、ついつい責任感がどこかに押しやられることはないだろうか、そんな気がするのです。