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川合アユムさん
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生涯のうちで一番仕事した3年間
- 佐々木
開発したものが大ヒットして、上司はびっくりしたでしょうね。
- 川合
びっくりでした。社長も出てきて「天才営業マン」と呼ばれましたよ。天才営業マン扱いするんだけど、天才営業マンではないんですよね。だから当時、一生懸命説明をするんですけど、社長は「いや川合は天才営業マンや」というふうにしか理解してくれない。
- 佐々木
給料は9万円から上がったの?
- 川合
一気に上がりました。ボーナスでは総務の女の子から妬まれて。「そんなん僕に言われたって知らんわ」と思いましたけど。ボーナスの割り当ての半分くらい、勝手に割り当てられました。
- 佐々木
どのくらいの金額?
- 川合
まだ19ぐらいの時で、ボーナスで多い時40万〜50万とか、100万ぐらいもらった時もあったと思います。最後のころ。
- 佐々木
社長は大喜びでしたね。
- 川合
うん。給料もドンと上げてもらいましたし。で、そのころは金銭感覚も戻ってきて(笑)。
- 佐々木
両方がこのへんで合ってきた
- 川合
そう、バランスが取れて(笑)。で、日本全国を飛び回ってたんです。東京も新宿のダイカンプラザにワンルームを借りて、そこを事務所にして、東京全域を回ってました。北海道も、九州も、四国も行っていたし、全国飛び回りながら、その仕事をしてる。もう楽しくてしかたなかったですね。
多分ね、19歳、20歳、21歳、この3年間は、生涯のうちで一番仕事した3年間(笑)。土曜、日曜は寂しいですよ、お客さん休んでるから(笑)。寂しくて寂しくて、やることないんですよ。
同じ歳の友だちはちょうど大学行って合コンとかやってるじゃないですか。ちょっとだけうらやましいなと思いましたけどね。で、何もなければその会社にずっと居たと思うんですけど、当時の会社の社長と平行線の議論になっちゃって。技術って一つうまく行くと、その次は「これをやらなあかん」「あれをやらなあかん」と見えてくるんですね。
それをやるためには研究開発の人員も必要だし、最低限の設備も必要だし、僕が持ってるパソコンじゃもうだめだったんですよ。個人で持ってるやつではね。
そこで、設備投資や人員の配置を稟議するため、稟議書の書き方という本を買ってきて研究して社長を説得するんですけど、わかってもらえませんでした。
当時の社長は商社的な発想で、一つの製品があったら、右から左へいかに手間をかけずに流通させて、いかにマキシマムに利益を出すかということをお前は考えろと。美しい商売というのはそういうものなんだと。研究開発とか開発投資とか、そんなんものは、やるべきもんじゃない。成功したらいいけど、失敗したら全部損だっていう考え方でした。
まあそれはそれで一理あると思うんですけど、ただ当時僕が作った数字っていうのはそういうのじゃなかったんでね。研究開発の成果が数字につながったんですから。だったら次の段階、また次の段階、さらに次の段階へ、という手を打っていかないと、っていうことで大分一生懸命説得したんです。でも全然噛み合わなくて、そこで見えてきたんですよ。
このまま行くともうどういうふうにお客さんに迷惑かけて、最終的に期待に添えなくて、どういう形で駄目になって行くかというのが、時間とともに見えちゃったんですね。
チンピラやめた時もそうなんですけど、もう最終的に駄目になると嫌になるのはわかってたから、ズルズルとそこに乗っかってるのがいやだったんですよ。
何となく行くのもいやだったし、あ、これ駄目になるとわかって、そこにぶら下がってるのが昔からできなかったんで、一番いい時に辞めようと、この仕事ここに残して全然違う仕事すりゃいいと思った。チンピラ時代にも感じたけど、もともと地べたで生きていけるし、「別にかまへんわ」と本気にそう思えて、辞める結論を出したんですね。
ただ単に営業してたのとは違いますから、その会社の製造から流通から、全部やってましたから、それをちゃんと責任を持って、引き継がないといけないんで、辞める結論を出してからも、半年は引き継ぎをしていました。
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