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かつて「本当の自分」はモノに宿った
インターネットが普及する以前は、「本物の自分」が現れる場所はなかったのだろうか? まだまだ「生身の自分」のほうが信用されていたのだろうか? でも先生のご著書『豊かさの精神病理』(岩波新書)を読むと、80年代ですでに、他者をモノのように扱っている人々が出現している。
たとえば、僕が絵を描いたとするでしょ? 「これは夕暮れの寂しさを表現したものなんですよ」と言っても、そういう言い方って日本語として変な感じがしません? 実は「表現」という言葉が死語になっているんですね。誰も「これは何を表現なさったものですか?」と聞かないで「自己表現で絵を描いていらっしゃるんですね」と言う。表現されるのは、自己に決まっているってもう決めつけてしまっている。
ほかにも例があります。「あなたは何を主張しているわけ?」という時に使うこの「主張」という言葉も、語彙としては知っていても、日常会話ではほとんど使わないはずです。必ず自己がついて「自己主張」になる。これは、絵を描いたり、楽器を弾いたりしているのは、「生身の自分」でしょ? だけど、「本当の自分」からすると自分じゃないほうがやっているわけです。だから「本当の自分」が「生身の自分」により表現されるから、「自己表現」なわけですよ。
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