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「世間」を決めるのは自分
「下ネタ」という言葉もあるとおり、日本人には「セックスに関して話すことは汚らわしい」というような意識がある。しかし、イー・ウーマンでの反応を見ると、本当はみんな話したかったのかもしれない。
セックスについて語ることって、とてもスキャンダラスだったり、無理に赤裸々に語ったり、興味本位でしかありえなかった。でも、それをちゃんと語ってみたいという要求はものすごくたくさんあると思います。
でも変に太陽の下に引きずり出すようなこともしたくないし、それはそれでベッドルームのなかの話でいいんだけれども、聞いた言葉をそのまま口から出すんじゃなくて、自分でもうひとつ深く考えようよ、みたいな部分が大切じゃないかな、とは思いますね。
日本だと「世間」というものがあると思うんです。西欧であれば、神と自分との関係が行動規範として働きますが、日本の場合、絶対的な内面の規範がなくて、「世間の目を気にする」、「世間に顔向けができない」、「世間を騒がしてごめんなさい」。って、何の謝りにもなってないよね。
多分戦後なんだけど、日本人はちょっと浮かれて世間というものを自分たちで壊してしまった。壊す時に、伝統というものは守るべきものではなくて、活かし続けていくものであるのに、自分たちが拠って立っているすばらしい伝統も大部分を壊してしまった。そこに何を持ってきたかというと、自分が耳で聞いただけの知識を持ってきた気がします。
世間って、自分が決めることなんですよ。たとえば、東京の新宿の世間と、山の中の集落の世間とは絶対違う。新宿で育った僕がいま逗子で暮らしていて、お隣さんから朝の通学路の横断歩道の旗振り当番とかまわってくるの(笑)。これは新宿区では絶対にないこと。
そんな順番を引き受ける家なんて絶対ないから、学校がどこかに発注する。通勤圏内でも、もうこれだけ違う。つまり、どこに住むかも含めて、おつきあいをする人たちを、自分で決めればいいんです。そこでの倫理観も、本当は自分で決めるべきなんだけれども、自分で決めてそれを胸張って言えるかというと、人はなかなかそれが言えない。そこで周囲にあわせるだけの人もいる。
ただ、本質的には「世間」は崩壊しつつあると思う。だからみんな、セックスというものについて語れる場ができたと思って、いろいろ悩んできたことをたくさん話し合いたいんだと思う。だから、僕がいまやっていることは、恋愛やセックスという切り口を通して、いまの社会は何かとか、自分たちにとっての世間を考えようとしているのかもしれません。
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