ホーム > 佐々木かをり対談 win-win > 第34回 久司 道夫さん

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久司 道夫さん
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アメリカでの豆腐づくり
- 佐々木
ところで先生は、1978年にクシインスティテュートをつくられたのですが、わたしが留学したのは80年くらいなので、なんとなくあのころの東海岸の様子がわかります。わたしは体調を崩した後、大学の食事システムから抜けて自炊を始めました。
でも、お豆腐を買おうと思って探し回ってもなかなかなくて。ちょうどアメリカで『ビタミンバイブル』という本がヒットして栄養のことが注目され始めたころですよね? もしあのころ先生にお会いしてたら、わたしきっと日本に帰って来てなかったんじゃないかって、今思ったんですけど(笑)。
- 久司
そうそう、そのとおりだよ。今ごろ、国際的に食のことでいろいろ活躍していたかもしれないねえ。でも、これからでも遅くないですよ(笑)。
- 佐々木
そのころボストンにクシインスティテュートをつくられた。そもそも栄養や食べ物に対して意識の低いアメリカで、自然食とかオーガニック、日本食を中心に考えることについて、抵抗に遭ったとおっしゃいましたね。理解してもらうのに時間もかかったし、いろんなご苦労があったと思うんですけど。
- 久司
はい、たくさんありました。語るも涙、聞くも涙(笑)。
- 佐々木
(笑)。どんな様子だったんですか?
- 久司
さっき話にあった豆腐にしてもね。そんなものは何もなかったんです。東洋人の住んでた、サンフランシスコからロサンゼルスのほうにはあったんですが、東ではなかったし、白人は一切知らなかったです。それをね、わたしたちの学生たちに教えて、作り方を教えて。にがりで作るんだよ、とね。家内も頑張ってくれたんですけど。
それで豆腐を作り始めて、その中の者が日本に来て機械なんかを買ったりして、豆腐会社をつくったり。それで豆腐がどんどん広がってきたんです。ダイコンなんかなかったんですよ、アメリカには。
- 佐々木
そうですよね。
- 久司
だから彼らは「ダイコン」って言うわけですよ。だから、ダイコンの種を日本から取り寄せて、学生たちに配って植えさせたんです。そこから始まったんです。それからシイタケもそうですよ。それから、海藻も全然食べなかったでしょ。
- 佐々木
そうですね。
- 久司
最初は日本から入れてたんですけど、それを今度は、学生たちに作らせた。メイン州だとかオレゴン州だとか。でもまだ依然として、日本の会社が一番いいですから。どんどん行ってますけれども。
だから彼らは「コンブ」「ワカメ」「ノリ」という言葉を使うわけですよね。みんなこっちから、ずっと広めていったわけです。梅干しもそうですし、ごま塩もそうです。いろんなものが向こうの食生活をどんどん変えちゃう。でも多くの人たちはまだまだね。
- 佐々木
それは、身土不二の考えからすると、違う土地のものを持ってきていることにはならないのでしょうか?
- 久司
いえ。というのも、ほかの食文化と比較検討した結果、伝統的な日本食の中には、人類にとって理想的な食体系が基本的にたくさんあることが結論付けられたからなんです。これをもとに、各地域のマクロビオティックの標準食を打ち出してきたんです。
梅干しやごま塩は家庭療法として薬の役割も果たしているわけですしね。身土不二的にいえば、できればその土地で採れた大豆や梅やごまを使って、みそやしょうゆ、梅干し、ごま塩などをつくればいいというわけです。
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