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株式会社プラップジャパン 取締役副社長 普楽普公共関係顧問有限公司 CEO
杉田敏さん
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広報の世界へ
- 佐々木
アメリカでジャーナリストとして仕事をされて、そこから先がバーソン・マーステラですね? ジャーナリズムから広報の世界へ入ってこられたきっかけは、何ですか?
- 杉田
ジャーナリズムと一口にいっても、アメリカの大学はほとんどそうなんだけど、いくつかに分れていて、新聞ジャーナリズム、放送ジャーナリズム、それに広報と広告というふうに。だからPRに興味ある人はPRのクラスもジャーナリズムのクラスも取れます。しかもオハイオ州立大学の場合には、卒業に必要な単位の3分の1は他の学部の単位を取らなければならないようになっていました。
- 佐々木
日本でPRという考え方が広がってきたというか成長してきたのは、杉田さんのかかわりと比例している感じがあるんですけど。
- 杉田
日本はまだまだですね。アメリカのほうがPRに興味を持っている人たちの数は日本よりずっと多いし、「裾野」という意味においてはずっと広い。PRを教えている学部や教授・学生の数や、教科書もたくさんある。
- 佐々木
杉田さんが転職する時、やっぱり人の紹介というか勧めというか、「こっちに来ないか」という形でキャリアをディベロップしていらっしゃった?
- 杉田
そういうこともあったし、自分から積極的にチャンスも探しましたね。新聞社に入ってからも、PRにすごく興味があって、自分に最も合ったキャリアは最終的にはPRかもしれないと思っていました。そこでPRに関する情報を収集するとともに、PR会社にも手紙を書いてみたのです。でも、ニューヨークには行きたくないと思っていました。何か恐い感じがしたし。シカゴとかロサンゼルスの中小のPR会社に手紙を書いたんだけど、どこからもあまり大した返事は来なかった。
ある時、トップ10社のリストを見て手紙を出してみたら、ニューヨークのバーソン・マーステラのハロルド・バーソン会長からすぐ返事が来た。当時、世界第2位のPR会社でした。今年84歳におなりです。いまだに年に一遍は東京かニューヨークでお会いしています。バーソンさんからの返事は、面接に来なさいと、ニューヨーク往復の航空券を送ってくれた。それでニューヨークまで面接に行ったんです。
- 佐々木
それはまた幸運。そんな大物からの直接の返事にも驚きますが、誰でもみんなにチケット付きで面接に招待していたわけではないでしょうし。
- 杉田
そうですね。ただ、その時にはバーソン・マーステラは日本に拠点がなかったので、オフィスを設けたいと思ってたわけです。そんな矢先だったので、特に興味を持たれたのでしょう。それでとんとん拍子に話がまとまって、ニューヨークで働くことになったんです。日本で合弁会社を作る作業を進めているけれど、交渉がうまく行かなかったら、ニューヨークで仕事をする。東京にオフィスできたら日本に行くという約束で、今からちょうど30年前の6月に入社しました。でもその年の12月にもうオフィスを開設することになったので、暮れには東京に帰って来ました。
- 佐々木
それで東京でスタートされて……。その後は?
- 杉田
バーソン・マーステラに12年半いて、それからクライアントのGEジャパンに移り、またバーソン・マーステラに戻って、それでプラップ。プラップに来てからもう13年です。
- 佐々木
プラップには、副社長として招かれたということですよね?
- 杉田
そうですね。
11/15
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