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二つの自分を生み出した歴史
「本物の自分」と「生身の自分」。ダメ出しをする「本物の自分」とは、「生身の自分」を司る神であるかのような印象を感じさせる。しかし信じる、信じないを問わず、神はわたしたち人間とは別に存在するものでは?
313年の公会議で、ローマ帝国がキリスト教国家になりました。ご存知のように、キリスト教は神の愛を中心とする宗教。理論として、神様から下りてきた愛に自分たちの愛を返す関係というのがありました。三位(神・子・聖霊)一体説というのがあって、それによると、神・子・聖霊の三角関係のおこぼれである愛を受けるのが人間でした。そのような理論が主流となると、人間とは常に神への愛を発していなければならない分、自らを省みる必要がなくなってしまうわけです。神様に愛されて、神様を愛していれば、それでOKになる。人生が単純ですごく楽になるわけですよ。
日本でもまた同様の考え方がありました。江戸時代に「お天道様」の思想というのが、ものすごく広がっていく。お天道様に恥じなければ何でもよろしい。こちらもすごく楽になるわけですよね。この思想が広がったのも、人目を特に気にするという日本人の性質もここから始まっているのですが、「お天道様」の正体は、世間の目をちょっと上に移動させただけ。それだけですごく簡単に上下関係になる、それでさっきと同様、みんな反省心を失うわけです。
でも、この楽チンな自分も、神の存在があってこそなんですね。ルネサンス以降の人間中心主義の流れで、神の存在は薄くなっていきます。そして、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」のように、神の存在がなくなり、自分の中を行ったり来たりする思想が始まりだすんです。神がいた位置に穴が空いて、その時に初めて、その穴を埋める存在が「もうひとつの自分」なのだと発見するんです。
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