

今よりはよくなると期待(junkomama)
わたしは犯罪被害者遺族です。自分がいや応なしに巻き込まれてきた刑事司法制度は決して平等なものではなく、遺族の思いは通じません。陪審員制度について、アメリカで研修を受けました。それが日本ですぐに使えるとは思えなかったのですが、少なくとも今の日本の刑事司法制度よりは世論に近い判決が出るのではと期待しています。
市民の良識が裁判に活かされるのであれば(もりんともりん)
わたしは全面的に賛成ではありませんが、現行の裁判制度に一石を投じるのではないかと期待はしています。最近起こるさまざまな事件、裁きようのないような凄惨な事件でも、「え?」と思うほど刑が軽かったり、裁判官のモラルの低下を考えて見ても、「本当にこれでいいの?」と感じることも多くなってきました。そういう意味では、市民の良識が裁判に活かされるのであればいいと思うし、今まで裁判での結果だけを見ていたわたしたち国民も、その経過を積極的に監視できるのではないでしょうか。初期導入時点では、さまざまな問題も発生するでしょうが、その都度よりよい方途を模索しながら、みんなが納得できる裁判を行ってほしいと思います。
法や政治に対して関心を持つきっかけに((paw・兵庫・38歳)
未婚法にしても政治にしても、日本人は無関心すぎるのがよくないと思います。こういった制度ができれば、「関心を持つ」という観点からはいいのでは? ただし、独自の意見を持つということが苦手という国民性があるので、不安な要素も大。
「学説」からの解脱は親近感を生む(あるばーと・神奈川・既婚・36歳)
司法制度に関する理解が進むかは別として、距離は縮まると思います。しかし、実際の裁判の場面で、案件の本質を理解できる人たちが裁判員に指名されればいいのですが、どうしたって人間には主観が入ります。判決の要素にどれだけ主観を取り除くかという、一種の技術は、一朝一夕に身につくものではありません。感情や偏った情報に押し流されて、誤った判断が横行してしまっては、本来の「裁判員制度」導入の目的は達せられないと考えています。とは言いつつも、いわゆる「学説」からの解脱は、やはり親近感を生むはずだと思っています。
きっかけがない限り遠い存在のまま(veronique・独身・29歳)
大学のとき、教養科目で法学の授業をとりましたが、まったく興味が持てませんでした。一般の人の法律に対するイメージは、その程度のものではないでしょうか。何か裁判ざたに巻き込まれない限り、法律は市民にとって遠い存在のままだと思います。わたしの場合は親しくなった友だちが民法研究者だったことから、法律への関心が強くなりました。彼女にとって法律とは、社会を読み解く論理、いうならば「もう一つの言語」であるようです。法律や裁判とはまったく関係のない個人的な相談をしたときにも、その論理の運び方に目を啓かれる思いをしました。もちろんさまざまな課題がありますが、裁判員制度が導入されることにより、法律を扱うときの論理的なものの考え方が少しでも市民の間に浸透し、社会に対する新しい視点を得るきっかけになればいいなと思います。

心の教育のほうが必要(琴祐・神奈川・パートナー有・31歳)
残念なことに、今の日本は自分のことで精一杯、自分の人生にだって責任を持てないのに、他人の人生の責任など持ちたくない、と思う人が大半でしょう。裁判員制度そのものが、司法との距離を縮めるのではなく、その必要性を論議したり、司法とはそもそもなんなのか、なぜ今このような制度が必要とされているのかを考える環境を、社会でも教育の現場でも、家庭でも持たなければ、制度そのものがやっかいで、めんどくさい、一人の国民の生活に、邪魔になる、ストレスのたまる役割というふうになると思います。
そんなことよりも、自分のことしか考えない人間をたくさん生み出し、犯罪者をたくさん作ってしまう世の中をどうにかする心の教育が必要ですよね。暴力団との関係があっても、その地位が保たれるような政治の世界や、たくさんのお金を持っている人ほど、悪いことをしていることがある世の中をどうにかしてほしい。一部の人だけかもしれませんが、今は有名人であればあるほど、悪い人のように見えますよね。小さなストレスやちょっとした心の病から、また経済的な閉塞感から犯罪へつながっていってしまうということをどうにかしたいです。自分のことだけしか考えない人にならないためには、どうすればよいか、ちゃんとみんなが考えれば、犯罪そのものを減らすこともできるし、裁判で罪を裁くことの重要性も高まるのではないでしょうか。今の感覚のままでは(少なくともわたしは)加害者被害者の好き嫌いで判決をしてしまいそうだし、許せない、という感情だけで犯罪を見てしまいそうで、怖いのです。
導入の合理性がない限りは……(xyz)
距離が縮まるかどうかの前に、裁判員制度そのものの存立を問うべきです。裁判員制度には反対です。理由は明快で、その意義が不明だからです。本テーマにあるような距離を縮めることがその意義だとしたらそれは方向性が違うのではないでしょうか。意義が不明な制度の導入を図り、効果があるとはとても思えません。実際、運用方法も論じられないまま、導入ありきで話が進みそうですが、とても危険だと思います。
よって、本テーマに対しての回答はNoです。裁判員として召喚された際の拒否権の問題や、また出廷義務付けの問題などがクリアされないままだと、実際に出廷し判決の過程の議論にも真摯にはコミットしないと思います。本来、全会一致で結論が出されるまで議論が交わされると思いますが、中には不本意ながら参加している裁判員は、自己都合で意見収束を図ったり、他の人の意見に安易に賛同したり、傍聴席の視線などに左右されることが容易に考えられます。ただし、現在の裁判制度そのものは最高裁凡例に右にならえの状態で判決が下され、時代とともに移り変わる社会通念から乖離(かいり)したものが多い。その解決のために民意反映という大義名分は図られるべきだと思う。導入に際しては、相当程度導入の合理性がない限り慎重に進めるべきだと思う。
上からのお仕着せに思える(ゆりぼたる・岩手・既婚・50歳)
なぜ「裁判員制度」と聞いて拒否感を覚えたか考えてみました。上からのお仕着せだからです。そもそもこのような制度は、全体の意識が高まり、必要性を痛感して初めて実施できる性格のものだと考えます。もっと議論を尽くしてからにしてほしいと思います。裁判員制度を導入するから司法との距離が縮まる……と考えること自体が、お上的発想のような気がして仕方がありません。突然決めるような乱暴なやり方はやめてほしいと思います。

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