いつまで続ける、この裁判
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2004年2月28日
オウム関連事件で最後の一審判決が2月27日に下りました。オウム真理教教祖麻原彰晃こと松本智津夫被告への判決です。予想どおりの死刑判決ではありましたが、この裁判は極めて後味の悪いものとなりました。なぜなら松本被告が事件についてまったく語らなかったからです。
短かった? この裁判
それにしてもこの7年8カ月にわたる裁判は、長かったのでしょうか、それとも短かったのでしょうか。ある弁護士と話す機会がありました。一般的にみれば、長すぎたという感じがしますが、その弁護士は「13件の事件と27人の死亡者という大規模な事件の裁判としてはむしろ短すぎるぐらいだ」と言ったのです。
日本では裁判によって犯罪事実を克明に描き出し、一部のすきもないぐらいに再現するのだそうです。たとえば死んだ人でも、持病があってそれが死因になったとすれば、殺人にはならないかもしれないというようなことを、一つ一つ証明していくとなると、それだけでも膨大な時間がかかります。さらに麻原の奇矯な行動を受けて精神鑑定をすれば、さらに2年近い歳月がかかっただろうとも言いました。
語られなかった真実
しかし裁判は、何も被告人を処罰するだけのものではありません。麻原が語ることによって、事件の真実が、その一端でも明らかになり、その結果、被害者や家族が事件を理解する、という糸口を見つけるためのものでもあります。つまり事件を理解することによって「癒される」という側面があるのです。拉致されて殺されたとされる方の「遺族」が、殺したとされるオウムの幹部に面会に行ったそうです。それは父親の最後の様子をどうしても知りたいからだと説明していました。麻原が真実を語れば、そうやって癒される人々がたくさんいるはずなのです。
その意味でも麻原には語ってほしかったと思うのです。弁護団は麻原を「真の宗教者」と持ち上げました。あれだけ語らないでいられることを考えると、たしかに「常人」ではないのでしょう。しかし常人ではないということと、人とコミュニケーションできないこととは、まったく別物です。現に、この教祖は昔はよくしゃべっていたのです。法廷戦術だけのためにしゃべらないという感覚は、これはとても真の宗教者どころか、あまりにも俗っぽい「延命策」でしかないようにも見えます(もっとも弁護士は、麻原がしゃべらなかったから8年ほどの裁判ですんだ、と言っていましたが)。
話さない、ならば裁判は続けるな
マスコミは事件を起こしたことに対する「反省」や「謝罪」を聞きたいようですが、わたしはそういったものよりも、やはり事件の真実に少しでも迫るために、当事者がどう考えていたのかを聞きたいと思うのです。それこそ、こうした事件を起こした首謀者が最後になすべき仕事だと思います。それが聞けないのだったら、麻原裁判など続ける意味はありません。
すでに弁護士費用だけで4億円以上の国費が投入されています。このうえ控訴審、上告審と続けば、あと最低でも3年はかかるでしょう。また、数億の弁護士費用もかかります。もしこれが冤罪の恐れもあり、人権にかかわる裁判ならば、お金の額に関係なく裁判を続けるべきなのでしょうが、このケースはどうしても納得できません。控訴審では被告がきちんと自分の言葉で事件を語ってくれるよう、切に願ってやみません。