ホーム > 佐々木かをり対談 win-win > 第10回 藤田正美さん

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藤田正美さん
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居心地のいい場所を離れて
- 佐々木
わたし自身、人と会う仕事をしていて思うんですが、人とたくさん会えば会うほど、自分が成長していくので、取材をすることって、すごくいい仕事だなと。「取材」という理由付けを持って、普段会えないような人や、いろんな人に会って、聞けないことを聞けるじゃないですか。きっと藤田さんも、その辺をおもしろいと思って記者生活を送っていらっしゃったと思うんですが、なぜ東洋経済を辞められたんですか?
- 藤田
東洋経済というのは、非常に居心地のいい所だから、悪くはないんだけれども、ただ残念なことに極めてドメスティックな会社だったんですよ。
ドメスティックだということに僕はちょっと危機感を持ったんです。こんなことでいいのかってね。実はその前にもちょっと、「英語も話せないとやばいよな」と思ったことがあって。東洋経済のそばに神田外語学院があったから、昼間ちょっと会社を抜け出してそこに通ったりして。
東洋経済にいると、たとえば海外出張といっても、極めて限られたものになるし、なんかいつも日本の中からしかモノを見ない。これはね、自分の成長過程からすると、「このままではやばい」と思ったんですよね。
- 佐々木
なぜそう考えるようになったんですか? 取材していくうちにそういうことをお感じになった?
- 藤田
そうそう。たとえば、ちょうどその時は製薬業界を担当していて、バイオに興味があった。お米のハイブリッドみたいなネタがあって、こういうことをいろいろ取材していると、やっぱり将来的に日本の米は中国の雲南省で作るのかな、なんて話になる。
だけど雲南省で作るといっても、雲南省ってどういうところだか知らないし、行ったこともない。そんなもの取材に行くと言ったって、当時の東洋経済では認められるはずもないし。アメリカの議会でこんな報告書が出ました、なんてバイオの技術報告書をもらったんだけど、これを取材しに行くったってね、ていうところがあって、これはやっぱりちょっと違うかな、と。
つまり、モノの見方をもっと広くしたい。日本に足を置いたままでモノを見るのとは違うモノの見方をちょっと身に付けたいという気持ちが、そういう取材の過程から生まれてきた。そう思ったのが30代の半ばでしたね。
- 佐々木
それで、どうされたんですか?
- 藤田
そしたら「ニューズウィーク日本版創刊につき編集者募集」という新聞広告見たわけですね。たまたま僕が知ってる毎日新聞の人に「そんな新聞広告見たんだけど誰か知ってる人いる?」って聞いて、その人の先輩を紹介してもらって話をして、「じゃあお前一緒にやろうや」っていうことになりました。一応試験は受けて、ニューズウィークに移ったと。
- 佐々木
東洋経済からは引き止められたんでしょうね。
- 藤田
引き止められました。でも、もともと東洋経済に対する不満があったわけじゃなくて、自分のチャレンジ精神を活かしたい、と思ったわけだから。そこを理解してもらっての円満退社でしたね。
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