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古川享さん
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僕が79年に書いたコラムがあるのだけれど
- 古川
僕が79年に書いたコラムがあるのだけれど、そこにはパーソナル・コンピュータ(物)とパーソナル・コンピューティング(環境/作法)の違いを、はっきり切り分けて書いてある。
パーソナル・コンピュータは、物が小さくなって、計算能力が高まって、パーソナル・コンピュータと人間が仲良くなると、人間が社会の中から隔離されて、1人になる。コンピュータもその子とばかり仲良くしすぎるから、コンピュータ・ネットワークの中から隔絶されてね、非常にいびつな関係ができあがる。
パーソナル・コンピューティングとは何かというと、実際に使っている物とか、キーボードやマウスの操作とかが完全に日常生活の中にとけ込んでその存在を意識しなくなってね。そうすると目の前にある物ではなく、自分と繋がっている遠くにいる人間同士がすごく身近に感じるとか、相手がどこにいても同じ痛みとか喜びを共有できるだとか。痛いものは痛い、熱いものは熱いと感じられるように感じられるものが理想的な姿で。
最終的にそういうものになって、パーソナルなメディアとね、マスメディアの中間地点に、新しいメディアが今後存在するだろうって、将来予測をしているのです。
それから情報の送り出しをいかに受けるだけじゃなくて、メッセージの発信を将来するようになるだろうかと。
でそういうメディア論が当時語られていたときに、結局、電話が耳の延長で、テレビが目の延長で、車が足の延長で、コンピュータが頭脳、頭の延長だって言っている人が多かったんだけど、それって人間の知覚や運動能力を増幅する、つまりアンプリファイアするっていう意味では正しい論評なのだけどね。
でも、そんなに計算能力が飛躍的に高まったところで、それで人間は本当に幸せになれるわけもなくて。人間が、そういうものを自由に使えて当たり前の状態になったときに、例えば、どうやって人と自分の痛みを共有するか、お互いの喜びを共有するか、幸せを共有できるかっていうステージになって始めて、その存在が人間の知覚を変えるような環境なレベルに到達したときに、最後に人間自身も変わってくるのだろうと。
人間が創造した物に着目するのではなくて、それが当たり前になったときに、人間がさらにもう少し優しくなれるとか、それから人間が作ったものが利便性を追求するだけではなく、さらに全ての創造的な世界に貢献できたり、自分のアウトプットが100人じゃなくて、1万人にリーチしたり。
そういうことにつながるんだよねって、人間はさらに変わるんだから、その変わるのを見届けたいって、79年、25歳のときに書いてたの。
だから自分はパーソナル・コンピュータが安くなったり、小さくなったり、便利になることに全く興味はない。というのは、それはある通過点でしかなくて、自分は精神分析や心理学/社会学とかに元来興味があって、ガジェットに興味があるのではなく、それを活用して最後に人間がどう変わるかっていうことにむしろ関心がある。1979年の時点では、今後20年ぐらいは、モノを沢山の人に広める、値段を安くすることで頑張るけど、その先にあるものこそが、本質的な姿なんだよねって書いてたんですね。そこに到達するまでに、随分、寄り道してきたという感じだね。
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