
心の成長度合いと情報量のアンバランス(mameminto・兵庫・パートナー無・29歳)
インターネットの普及により、情報が氾濫し、空想と現実の世界がリンクしてしまい、子どもにとっては何が良くて何が悪いかの判断がしにくい時代になっているように感じます。心の成長が伴わないのに、情報だけが詰め込まれていく時代、それが犯罪の低年齢化につながっているのではないでしょうか。
加害者の少女がバイオレンス映画のDVDを観ていた話がありましたが、あの映画を観ると殺すという行為に対して大変興味が湧くのではないでしょうか。大人でもしばらく殺りくの映像が脳裏をよぎるほど刺激的でした。子どもが何をしているか親だけでなく周りの大人たちが気にかけてやることが大切だと思います。一人の世界に閉じこもる前に人と接する楽しさを教える、地域ぐるみで子どもを守るなど今回の事件により課題は山積みだと思いました。
ネットそのものでなく使い方の問題(norieda)
癒しという言葉がブームになるように、現代の社会は、大人も子どももストレス抱えていると思います。気持ちに余裕がなく、わたしも些細なことで腹を立て、余裕がないなと反省することが多々あります。人間よりも技術のほうが先行してしまい、人間がシステムに追いつこうと躍起になっています。世の中の変化するスピードも早く当然歪みも出てくると思います。
インターネットが問題になっていますが、インターネットが悪いのではなく、使う側の使い方次第だと思います。親や先生や友だちに相談できないなら、なぜこの子はインターネットを使って相談しなかったのでしょうか。人の意見を聞くことで、自分自身が客観的に見えることもあると思います。客観的に自分を見ることができれば、つまらないことにむきになっていたと自分自身を顧みることできるのではないでしょうか。
心の教育の問題(アールプラス・神奈川・パートナー無・33歳)
この事件に関しては信じられないです。カッターナイフに限らず悪用すれば何でも凶器になる。パソコンやテレビがいけないというよりも心の教育が問題だと思います。わたしは独身ですが子どもを育てるのは怖いです。
家庭という小さな社会で(あいぴょん・パートナー有・26歳)
少年犯罪を減らすには、大人が子どもの教育にもっと真剣に取り組む必要があると思います。また、人の命を奪うということは、どんな理由があるにせよ、許されることではないのです。いくら加害者が小学生であっても、人を殺したら、人として取り返しのつかない罪を犯してしまったのです。強い言い方かもしれませんが、法律で定められているとはいえ、加害者のごく一部の情報しか公表されないのはどこか甘いと思います。そもそも、他人の未来を奪った者に、将来を夢見る資格はあるのでしょうか? 加害者は、被害者の関係者からは許されることはない、ということを理解し、一生、命を懸けてその罪を償ってもらわなければ。やはり一番身近な、小さな社会である「家庭」で、子どもにしっかり教育しなくてはいけないのではないでしょうか。
子どもの心がわからない?(どれみふぁみちこ・大阪・パートナー有・37歳)
多くの大人が、最近の子どもの心がわからない、と言っています。でも、長い間、子どもの心を理解しようとしなかったのは、大人なのではないか、その代償が今、現れてきているように思えてならないのです。学歴社会が大きな幅をきかせ、子どもへの押しつけばかりになってしまっていたのではないか、子どもの心は尊重されていたのだろうか、そういったところにも問題を感じています。子育てする側としては、便利なものが、たくさん溢れ、つい、子どもの心に向き合うことよりも、楽なほう、楽なほうへと、流されてきたということはないでしょうか。
今、子どもたちの問題が表面化することによって、大人が何に気付き、何を反省していくべきか、そこのところを外しては、今の子どもの問題の解決にはつながらないのではないかと思えてならないのです。犯罪の低年齢化に危機感を感じると同時に、そこに気付かない大人が多いことに危機感を感じてしまうのです。社会全体で、気付いて、見直していかなくてはいけないということを、子どもたちの問題は語っているのではないかと思うのです。
子ども同士が直接触れ合い遊ぶ(こうむ・神奈川・パートナー無・45歳)
同じ学年の子どもを持つ身として、衝撃を受けました。「人を殺してはいけない」という当然知っているべきことを「頭がいい」と思われている子が守れないのは、なぜでしょうか。わたしのころと違って、今の子どもは、幼い時に子どもだけで遊ぶ経験が少ないように思います。子どもだけで遊んでいた時は、仲間外れにしたり、けんかをしたり、といった「よくない」ことがたびたび起きました。今の子どもは、精神的な鍛錬をする機会が、大人の監視によって、阻まれているように思います。
うちの子どもたちは、兄弟げんかをしないため、小学校が他人との争いの練習場です。周辺校に比べて、乱暴な子どもが多い、と言われる学校ですが、「痛みを知るいい機会」とわたしは受け止めてきました。多分、手や口で直接的に争いの起きる学校のほうが、そうでない学校よりも極端なことにならず、人間関係を構築できる環境があるのでは、と思い、願っています。親は、子どもの様子に気を配り、話すことで子どもの不安の解消に努めなければならないと思いました。また、子どもに自分の気持ちを表現する術を教えることも、大切だと思います。
加害者のプレイバシー(月の猫・神奈川・30代後半)
長崎の事件後の父親の会見は見ていてとてもつらかった。「報道をする立場として、自分も頼んだろうから」と無理を押して会見されたようですが、そもそも、なぜ被害者の家族にそこまで立ち入る必要があるのでしょうか? 毎回のことですが、被害者の顔写真・名前・生活環境が生々しく報道されることに違和感があります。同級生の加害者に関しては、人権上(未成年だから)報道しない、できない……。わたしたちは知る権利を傲慢に使っていると思います。
報道する側は「国民が知りたいと思っている」と免罪符のように言いますが、だからすべてが許されるのでしょうか。それを報道する責任を、報道する側は思考停止せずに、検討しているのでしょうか。わたしは被害者こそ、そのプライバシーは保護されていくべきなのではと考えます。現場で被害者・加害者の名前が出るのは仕方がないでしょう。けれど、それを報道する意味がどこにあるのか。このような事件が起こるたびに、被害者のプライバシーより加害者のプライバシーが優先されることに疑問を感じます。被害者は殺され、しかも死後プライバシーを無視される。死に損なのでしょうか。とてもやり切れないと感じています。
検証を強く望む(ゆりぼたる・岩手・パートナー有・51歳)
しだいに明らかになってきていることをみていくと、神戸の事件との共通点も感じます。幼少期における脳の発達になんらかの異変が起きているのではないでしょうか? 従来の心理学者や教育者が何をいってもしっくりきません。科学的なデータや裏づけをもとにした検証を強く望みます。
我慢や協力の気持ちが失われつつあるのか(イクラ・東京・パートナー無・41歳)
犯罪というくくり方でいえば、万引き等は昔も低年齢で起きていたと思います。しかし今問題なのは、殺人等の凶悪犯罪が起きていることではないでしょうか。昔に比べて物質的に豊かになり、子どものうちから自分の部屋、テレビ、パソコン、携帯電話を持ち、食事も家族バラバラで好きなものを買って食べる家庭が増えている感じです。そんな中で何かを我慢する、誰かと協力するなどの気持ちが消失して行く方向にあるような気がします。自分に反抗しないのが良い子と思い込んでいる親も多いようで、その反抗心が思いもよらぬ形で爆発しているように感じます。
道徳観を学べる相手や場所が少なく(ヒ・海外・27歳)
わたしは祖父母と暮らしていたせいか、自然に「善悪の判断」「道徳観」というのを教えてもらったような気がします。今の子どもたちは、そういったことを学べる相手や場所が圧倒的に少なくなっているのではないでしょうか。また、子どもには子どもの社会があるわけで、そこまでは大人の目も届きにくいでしょう。将来自分が親になったときにどこまで子どもを守れるのだろうか。
重要視されていいのか、表現の自由(tanibo・神奈川・パートナー有・36歳)
佐世保の事件で、わたしが高校生のときに、「テレビの番組が、子どもの心に何を残すのか」というテーマで、投稿が掲載されたことを思い出しました。わたしの世代は、いじめと、校内暴力が社会問題として取り上げられだした世代で、それらをテーマにしたドラマが、よく放送されていました。そのドラマの暴力シーン、いじめのシーンが、新たなイジメのヒントにならないかと危惧していることを書いたのですが、今は、まさにそれを実証する時代であることを悲しく感じています。犯罪のヒントを与え、個人のプライバーシーを侵害する、表現の自由が、人の命、生活の安全を脅かすという危険性よりも、重要視されていて本当にいいのでしょうか?