
支援者仲間ネットワークが一つの支え(まりい・大阪・既婚・38歳)
小学生の子どもを持つ母親にして行政の子育て支援担当者でもあります。専門家のはしくれですが、自分の子どもは別です。長崎の事件の加害者の少年に近いところを彼も持っているので心配でたまりません。
一般のお母さんよりも、関連する情報をたくさん持っているだけに惑わされたり、しんどくなることもあり得るわけです。ただ、そういうときには、一緒に仕事をしている専門家の支援者仲間ネットワークがわたしを支えてくれるのでありがたいです。わたしも含めて不安な母親というのは、考えすぎる部分も多く持っているように思います。子どもは未熟ながらも一つの人格を持っている、れっきとした個人であり、親ができることっていうのは、もしかしたら子どもたちの人生の中ではほんの一部分なのかも。子どもたちが自分の足で人生を切り開けるように支えてやるのが親だと思うと、少しラクになりました。子どもの気持ちを完全に理解することなんて多分できない。
ただわたしは子どもたちの気持ちを必ず聞くようにはしています。小学生になってからは、親との折り合いをつけるようにもしています。上から押さえつけたり一方的な指導では子どもは息苦しいです。だからといって野放しにするわけではありません。時には嫌われても、ルールを守らせるコトだって必要だとも思っています。こんな世の中だからこそ子どもたちの力を信じる・見守っていきたい。そのためには親自身が安心して相談しあえるネットワークを持つことが一番大切ではないかと思っています。
10代の立場から大人に向けてのメッセージは……(yuukiewo・福岡・17歳)
わたしは、子どもの考えや行動が「理解できる」「予測可能だ」と思った時点で、重大な過ちを犯していると考えます。現代の子どもたちの多くは、幼児期から親や周囲の大人の価値観の枠にはめられ、画一化されたレールを年々肥大する競争意識とともに、ひたすら走らされています。学ぶ機会があるのに学ばせないのは親の緩慢さだ、と誤った理屈をたて、早期教育に熱をあげる親。良い得点をとることでしか評価されない学校。しつけと称してふるう言葉の暴力や、自立を促すと称した育児放棄。
すべてにおいて共通する事項は、大人の意向に沿って子どもの生き方を捻じ曲げ、コントロールしようとする姿勢です。このような環境で育てられた子どもたちは、一見は良く勉強し、親のいうことを聞き、なにも問題の無さそうにみえる「いい子」ですが、実際は大人の価値観に従う事でしか、自分の価値を見いだす事ができない極めて危険な子どもなのです。長崎の事件では加害者の少年の「幼児性」に注目が集りましたが、「何を今更」とも思います。幼児期から社会にコントロールされ、失敗した体験から自ら問題を探し、解決へ導く力さえも与えられられなく、子どもらしい悪戯や小さな悪の感情までも押し潰された人が、情緒をもった「大人」になれるはずがありません。
わたしは、10代の立場から大人へ、「子どもの頃から幼児性を押し殺そうとコントロールすればするほど、悲惨な結果になる。肝に銘じろ」と言いたいです。
子どもはつねに大人を見ています(フラアンジェリコ)
最近の子どもは謎だらけです。まずは大人が自分の行動に気を付けるべきでしょう。子どもはつねに大人を見ていますから。
親子間でも煩わしさから逃げてしまう無責任さ(himetaro)
古荘先生のおっしゃる通り、大人が変わってしまったんだと思います。身勝手で依存心の強いお年寄り、無責任なのにすぐに怒りをあらわにする中高年はじめ、狂った生活リズムを繰り返している若者などなど、身の回りには「あれ?」と目を疑うような大人たちがたくさんいます。彼らは彼らの価値観を正当化して生きている、価値観という便利な言葉に置き換えられた数々の非常識がまかり通る世の中になってしまったと言える。
これではまともな子育ては望めない、子どもに我慢や規則正しい生活の大切さを教えようものなら、反抗期も手伝って、「うちは窮屈、堅すぎる」とか言い出す息子。わが家流を貫くのは正直言って大変だったりする。決して難しいことを子どもに要求しているわけではない、少し前までごく当たり前と考えられていた生活習慣などがガラガラと音をたてて崩れていっている。あまりにもショッキングな少年犯罪が起きるのも、少年の変化に気付かない、というか、親自らの常識が本当に常識として通用しているかどうか、わからなくなっていたり、親子間であっても煩わしいことからは逃げてしまう無責任さが原因のひとつにあるような気がする。
今に始まったことではないのでは(うっしー)
子どもが何をするかわからない、というのは今に始まったことではないように思います。すぐに「現代社会の問題点」の結果のように言われがちですが、そうは思いません。ただこうした犯罪の情報が隠匿されることなく、メディアにのって全国に広がるようになっただけのことではないでしょうか。
共働きが偏見で見られる(はるたいママ)
2児の母です。上の女の子の時にはなかった悩みが、下の男の子にはあります。甘えん坊で笑顔もかわいいのですが、カッとなると言葉が出ない分、手が出てしまって。いくら怒っても、同じことの繰り返しです。保育園でも少し問題児扱いされているようで。でも、担任の一人の先生が、理解ある方で、根気強く言って聞かせて、と頑張ってくれているので、わたしも普段から、家で忍耐強くしつけるよう頑張っています。「わかった!?」と強く叱っても、心に届かないようなので、今はこういう方法を取っています。
それにしても、こういう悩みを相談すると、「それって保育園に行っていて、親と接する時間が短いからじゃない」と言われることも多く、まだまだ何か悪いことがあると共働きのせいにされてしまうのかな、と悲しくなることもあります。それだったら、保育園児がみな暴力的、ということになりますよね。もちろん、寂しい思いをすることもあるのでしょうが、それがすべての原因にならないよう、日々の接し方で努力しているつもりですが、これだけ共働きが増えても、何かあるとこういう偏見で見られるのだな、と思います。
言葉や身体的暴力、そんな被害にあう可能性を考えたら(コンキン)
知ってる子(親戚・友人の子ども)、顔見知りの子(ご近所や知り合いの子ども)、知らない子、対象がどのグループに属するかで、こちらの反応も異なります。知ってる子の場合は、こちらも真剣にコミットすることができます。知らない子の場合は、最近の風潮では、うっかり注意すると逆切れ被害にあうので、自分を守るためにも近づかないのがいちばんかと消極的になりがちです。顔見知りの子の場合は微妙なのですが、やっぱりこわいかな……。言葉の暴力・身体的暴力、そんな被害にあう可能性を考えたら、正直なところ、うっかりコミットできません。
命の大切さをどうやって教えればいいのか(たれまま・東京・既婚・34歳)
殺されてしまった駿くんと同い年の息子の母親です。ニュースを最初見たとき、涙が出ました。駿くんがかわいそうで。犯人が中学生と知ってからは、言いようのない不安に陥りました。事件前にスーパーでの買い物で、お店の人とやり取りりしている間に、息子の姿が消えてしまいました。試食コーナーかお菓子のコーナーにいるだろうと思いつつも、ほんの数分でしたが、すごく不安になりました。息子も不安になったらしく、母親の姿を見つけて、ほっとした顔をして、「おれ、迷子になった」と言って、そのときは笑っていたのですが……。長崎の事件以来、親も子どもの行動には敏感になりましたし、息子も、ほんの数分の迷子の経験からか、買い物でも親の側から離れなくなりました。4歳、5歳くらいが、一人で行動したくなる時期なのかもしれません。人を疑うことを知らない弱い存在でもある。親もちょっと油断する時期なのかも……。今回の事件は、起きて初めてこんなことが起こる世の中になってしまったのか、と愕然としました。子どもを守るのは親しかいない。そして、その子どもが、道を外れてしまわないように、指導もしていかなければいけない。12歳になって、突然「怪物」になるわけではないと思います。小さいころからの積み重ね。弱いものをいじめない、まして、手をかけてはいけない。命の大切さをどうやって教えればいいのか、本当に悩んでしまいます。大人につきつけられた、重い課題です。

理解するためには話さないと始まらない(ぼよん)
今のところ、NOです。どんな人でも理解するためには、話さないと。と思います。自分の子どもなら、なおさら話さないとだめだと思いますね。話していないと、夫婦間も悪くなりますし、それは実証済み。やっぱり話す時間が少なければ、それだけ距離感が出ると思います。今はまだ、ゆっくりと子どもに見合う時間を十分に取れていると思っているので、心配していません。
忍耐と愛をもって小学校に上がるまで頑張った(binko)
わたしの子どもは、中1と高3の息子2人です。「子どもの予期せぬ行動が心配?」というのは、小学校に上がるまではそうでしたが、その後は、全然心配してません。どうしてか? それは、小学校に上がるまでに、常識的な良いことと悪いことを徹底的に教え、また、コミュニケーションを絶えずしていたので、今でも、学校の先生や友だちのことを話してくれるからです。でも、そんな子どもは言わないこともあるだろうというかもしれない。それは、言ってもいいことと、言っては悪いことは大きくなることで、自分の判断で決めることだから、それはそれでいいのではないでしょうか?中学になっても、子どもの予期せぬ行動を心配するのは、小さいときに、親がしっかり子どもに教えるべきことを教えなかった親であると思います。生まれてから3歳までの、教えるべきことを一番教えるべき時期に、テレビとゲームでおもりをさせた親をたくさん見ました。わかるのです。そのほうが簡単に子どもを黙らせじっとさせられるのですからね。3歳までの子どもにさまざまなことを教えることには、それなりに親の忍耐が必要です。忍耐と言うのはたやすいのですが、この忍耐、大変なものです。それこそ初めての時は、すること成すこと、予期せぬ行動を起こしてくれます。それを親がコントロールできるようにしていけばいいのですが、油断すると、子どもが親をコントロールするような賢さがあるので、そこを見破り、とことん親の威厳をもって行動をしていくことが大切。これが何とも大変でこの子のためにと思い忍耐と愛をもって小学校に上がるまで頑張りました。だから、今その結果が出ているのかなと思ってます。後はこの世の中悪い誘惑がたくさんあるので、いろんな事件などをよく話し合っている状態です。
「親の目・接し方」が大切(mamick)
子どもが小さいうちは、被害から守るために。少し大きくなってからは加害者になってしまわないために。いずれにしろ小さいころからの「親の目・接し方」が大切だと思います。いい面だけの子なんていません。時折、顔を覗かせる「悪い面」を早めに察知して良い方向に促す役割が親にはあります。たとえば、小さな虫などを捕まえてきて、翌日に死んでしまっていたときや、わざと死なせてしまったときにどう接するか? 一緒におもしろがったりしては絶対にいけないと思いますし、叱ってもいけない。一緒に考えて、一緒に泣いて、命の大切さとは時に体を張って教えるものなのです。その子の「サイン」を見逃さないために、親は対応する知識を持つべきだと思います。それは児童心理学などの学問で得るものや、自分の親や近所の年配の方のアドバイスなどでもいい。子育てではかじ取りを絶対に誤ってはいけないシーンがあるにもかかわらず、あまりにもかじ取りをしようとしない親が多いのかもしれません。「放置する」と「見守る」は似て非なるものです。自分自身も毎日のかじ取り、必死です。だけど必死(=真剣)な態度というものは、ちゃんと相手である子どもにも届いていると信じています。