ホーム > 佐々木かをり対談 win-win > 第123回 織作 峰子さん

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織作 峰子さん
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父からの影響が大きかったんです
- 佐々木
子どもの頃のお話を伺いたいんですけど、どんな家庭に育ったのですか? お父様は、確か日本建築の大工さんだったとか。
- 織作
そうです。だからずっと、職人さんと一緒で。実家の隣が工場だったんです。父はいつもそこで働いていて、「趣味が仕事」の人でしたし、唯一のお休みは、お正月と5月の連休の3日間だけ。日曜日も休みなく働いていました。
- 佐々木
お母様は?
- 織作
母は、おばあちゃんの時代から、ちょっとしたお店をやっていたんです。いろんなものを売っている、田舎のお店。タバコとか塩とか切手とか、日用品を置いてある小さいお店ですが、元々は、おばあちゃんが、戦前、戦中と、料亭をやっていました。それから一気に戦争になり、子ども夫婦や、旦那さんと、1年に3人のお葬式を出したんです。とても大変なことがあってから、料亭をやめ、小さいお店を始めて、それをうちの母が受け継いだんです。写真の道に入ったのは、父からの影響が大きかったと思います。
- 佐々木
その当時、家庭によっては、「24〜5歳で結婚しなさい」というところがまだ多かったと記憶していますが、そんな中、職人のお父様は、仕事に関してなにかおっしゃいませんでしたか。ミス・ユニバースなんて驚かれたでしょうね。
- 織作
新聞に載っちゃったんです、地方新聞に。「近畿地区代表3名」って、写真がドーンと載っちゃって、両親がびっくりしてました。新聞社から電話が入って親は初めて知ったので、「どうしたの? 何で言わなかったの?」って言われて、「ちょっと遊びでやったら、受かっちゃって」って言って。でも、日本大会には来てくれましたけどね。
- 佐々木
そういった家庭の環境の中で教えられたことは、どんなことですか。お父さんと一緒に、よく絵を描いたとか?
- 織作
工場に行けば、木屑がいっぱいあって、それを使って遊んだり、彫物をしたり。あとは、うちの実家の向かい側に美術の先生が住んでいたので、遊びに行きながら絵を習いましたね。でも、親が子どもに、こういうふうに、というのは一つもなくて、進む道は自分で決めてきました。親も、それに関しては「頑張りなさい」とだけ。もうお任せ、という感じでした。
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