
他人に感心を示さないという社会が早期発見を遅らせている(DEYOKO・海外・パートナー無・28歳)
核家族化や隣に誰が住んでいるのかも知らないという、他人に感心を示さないという社会が子どもの虐待の早期発見を遅らせているのではないでしょうか。それに自分が虐待をしているのかもしれないと気がついても、残業で毎晩遅く帰ってくる夫、遠くで暮らす親、みんな毎日忙しく自分のことだけで精いっぱいの世の中。話を聞いてもらいたくても誰に相談していいのかわからない状態なのだと思います。また、虐待を受けて育った子どもが親になったとき、その子どもを虐待するという傾向が強いと何かで読んだことがあります。次世代への継承を防ぐために、もっと虐待という問題を表面化させることが大切だと思います。
しつけのノウハウを広く啓蒙していけば(りんべる・イギリス・パートナー有)
無駄な暴力やトラウマの発生を防止するためにも、子育て中の親や先輩世代の親がすすめる育児アドバイス集みたいなものがあれば良いかなと思います。紙媒体でもオンラインでも構いません。
以前NHK教育テレビで、スーパーで子どもがお菓子などを欲しがって泣き出して困るといった事例と取り上げ、その際の親の取るべき行動を専門家がアドバイスするという内容の番組を見ました。具体的には、お菓子をそもそも子どもに見せないこと、一つ選びなさいといっても子どもにはそれが難しいことを親が理解する、泣きやまない場合は子どもと一緒に店を出て様子を見るといった手ほどきを5分ほどで紹介していました。このような、日常的な場面に即した、体罰でないしつけのノウハウを広く啓蒙していくことも効果的ではないでしょうか。核家族化で親世代の育児方法を聞くチャンスも限られていますから、行政などが中心となって取り組む課題かと思います。
与えることができない大人が多い(ワイコロア・埼玉・パートナー有・38歳)
しつけと虐待の違いはどこか? わたしも母親として、悩むところです。わたしは両親が教員という環境で育ち、わたし自身も教員を目指していました(教員にはなりませんでしたが……)。なので、実家での家族間の会話も自然と教育とか子どもへの接し方に関する話題が多かったように思います。父がよく学校での出来事を話してくれていたので、子ども心に何か感じるところはありました。
わたしは、しつけと虐待との境目は子どもと大人との間にどれだけの信頼関係が築けているか?によって決まるのではないかと思っています。漠然としていますが、そもそも教育はそれぞれ違うものですから、工場でどうやったら売れる商品を作れるのか?みたいな結果を求める考え方ではたどり着けないものだと思います。子どもをしつけけることのできる人は、子どもにいっぱい愛情を注げて、子どもから全身で信頼を得られている人だけだと思います。それ以外の人が、しつけだともっともらしいことを言ったり、行動に起こしたりしても、それは、虐待になる可能性がとても高いと思います。今、愛情をもらいたい大人ばかりで、与えることができない大人が多いことが、虐待を増加させているのではないかな、と自分の反省も踏まえて思っています。
自分なりにルールを決めて(bori・福岡・パートナー有・30歳)
わたし自身、3歳の息子がいますが、しつけをしているつもりが虐待に発展してしまわないか、不安になることがよくあります。虐待まではしていないつもりですが、精神的に疲れていたりするときには、少なくとも虐待に走ってしまう人の気持ちはわかる気がします。自分も結構厳しく育てられたので、子どもに対して、正直、大声を出すこともありますし、手を挙げるときもあります。
ただ、これは母から教えられたのですが、自分なりにルールを決めています。たたくときは自分も痛みを感じるように手のひらで、回数は2回なら2回までと決めておいてそれ以上は絶対ぶたない、精神的に参っているときは決して手を挙げない、ということです。もちろん、その前後のフォローや、どうして怒っているのかという説明をしっかりすることも心掛けています。でも、わたしが大声を出したり、大きな声で子どもが泣いたりしていると、ご近所にどう思われているのか、ふと心配になることもあります。でもあまり気にしすぎると、余計密室化してしまい、陰湿になる恐れもあるのではないかと思います。悩みの尽きない問題ですが、自分の気分に任せて必要以上に子どもを叱っていないか、虐待をしていないか、など自問自答し、悩みながらやっていくしかないのではないかと感じています。
親の精神状態も考える必要がある(アンヘルカーサ・東京)
虐待のことを考える時に、子どものことを考えるだけでなく親の精神状態も考える必要があると思います。そしてその親を育てた親の育て方、情操教育のあり方を考えれば原因が見えてきます。核家族化が戦後の日本は増えて、物質至上主義の時代を迎え、物質的には裕福な国になりました。しかし一番大切な心の問題は一番最後になってしまったようです。育ち方はその人のすべてに表れます。虐待される子どもはもちろんのこと、虐待するような状況にある大人もある意味被害者かもしれませんね。行政がもっと情操教育に関するプログラムを考えるべきではないでしょうか?
子どもを育てる自信がないのなら産むべきではない(ちゅちゅ・東京)
わたしは電車の中での虐待を目の前で目撃しました。母親は土気色の顔をして、この世で見たこともない憎悪の表情で5歳くらいの男の子の顔を思い切りつねったり、叩いたりしながら周囲をうかがうのです。電車内の出来事で警察に連絡したほうがいいのか、直接注意したらいいのか迷っているうちに下車してしまいました。自分の無力さを痛感しました。
あの男の子は一生母親から受けた暴力や憎悪という感情を抱えて生きていかなくてはならないのだと思います。母親のストレスなど、虐待する側を弁護する意見もあるようですが、わたしは子どもを育てる自信がないのなら産むべきではないと思います。虐待を社会の責任に転化する前に、親の自覚、人間としての自覚、生命への自覚、をもう一度育て直し、確認した上で親になる、ということのほうが大事なのではないかと思います。
われに帰る自分であり続けたい(さとやん・京都・パートナー有・32歳)
「虐待」という言葉を聞くと、もしや……?と自分を疑うこともあります。わたし自身母親に体罰らしきものを受けて育ちました。それが虐待かどうかはわかりません。でもわたしが母になり、子どもをつい怒鳴りつけたり、あっち行ってと押したりすることもあります。それも虐待の一種かも……。
でも自分が受けた痛い思いだけはわが子にはさせていません。というかできない。わたしは結婚するまで保育士という仕事をしていて、子どもへの体罰や虐待のことをたくさん勉強してきました。よくないこともよくよく理解してきたつもりです。でも、実際子育てに入り、人間ですから穏やかな日々ばかりでもなく、言うことを聞かないわが子を目の当たりにすると冷静さを失います。でも、わたしは保育士になってよかったと思ってます。でないとわたしも母と同じように体罰を与えていたのかも……。われに帰る自分であり続けたい。
父親参加型の社会になれば(イスタンブール・関東)
親の虐待は多いと思います。身近でも必要以上に怒ったり殴っている様子を見たことが何度もあります。親が「自分が子どもをしっかり育てなくては」というプレッシャーのあまり逆切れしているようです。もっと相談できる体制、母親だけでなく父親も参加する社会にならなくては、当面続くのではないかとも思います。女性として「子どもを育てるのは自分の責任」という思い込みはなかなか薄まらないものです。
精神的虐待は見えない分だけ深刻な問題(星みづき・東京・パートナー無・39歳)
わたし自身が幼少時に精神的(言葉による)虐待を受け続けていたのですから、絶対に身近にあると思います。それも、精神的虐待が。どこまでがしつけでどこからが虐待か、の線引きをするのは難しいです。特に精神的虐待は表に出ない分よけい難しいです。
わたしは、子ども自身が自己否定をするような考えに至ることがあれば(たとえばわたし自身がよく言われたのが「男だと思ったから産んだ」で、わたしはこれで自分が女性であることを肯定できなくなりました)、すでに虐待だと思います。身体的虐待より精神的虐待のほうが、見えない分だけ深刻な問題です。しかも言葉によるものの場合は「そんなことは言っていない」と言われればそれまで。でも、そこをもう少し何とかしないと、表面的に傷がないだけ、子どもがかわいそうです。