
柵と壁とを見分ける能力(ありる)
バリアフリーは、正しいことなのでしょうか? バリアを「障壁・邪魔」と考えれば、ない方がいいと思いますが、「柵・境界」と考えると、今の、すべてが曖昧でなあなあが許されている社会の現状において、なくなった方がいいとは言えないような気がするんです。たとえば、ユニバーサルデザインや、障害者雇用受入れなどにおいてはバリアフリーと喜んで口にしたい。けれど、本来しっかり相対して見定めたり解決しなければならない問題に対して、対立を避けるために問題解決を先送りするような状況や、不利益をこうむることを恐れて、自分の立場を確立せずに(相手との間に柵を立てずに)平気で意見や発言を展開する人や、自分の立場をわきまえない人を目にすると、それは違うんじゃないか、と言いたくなります。あるべきバリア(柵)、なくすべきバリア(障壁)、本当に必要なのは両者を見極める判断力と知恵なのかもしれません。また、バリアはあっても透明化すべきものもありますし……。難しい問題ですが、私自身は、全てにおいてバリアフリー! と声高に叫びたくはない、と感じています。
意識するほどバリアが生じる(有依・埼玉・パートナー有・27歳)
「バリアフリーな人」になりたいと思って、地域のボランティア団体に所属したことがありますが、意識すればするほど、バリアが生じてくるような気がして、そのギャップに嫌気がさして辞めてしまいました。地元の駅に階段を上らなくても直接ホームに入れるゲートがあります。重たいスーツケースを一人で運べなかったので、そこを通らせてもらうよう頼んだら、「ここは車椅子専用ですので」と断られ、駅員さんと二人でスーツケースを持って階段を上り下りしました。なんか変だと思いませんか?
自分を守るためのバリア(willow・千葉・パートナー有・48歳)
「心の中のバリアを除く」という一節がありましたが、これはやろうとしても相当難しいし、また、果たして除く必要があるものだろうか、という思いもあります。物理的なバリアを除く、例えば、車椅子でも行動できるような環境を整える、といったような努力はできます。しばらくアメリカにいたのですが、あれほど自由を信奉し、異文化異民族異宗教を広く受け入れようとしている国民が果たしてどれだけ彼等自身の心の中のバリアを除こうとしているか、とても疑問に感じました。実に、このバリアは高く堅いのです。しかし、これは当然と言えば当然ではないかと思います。何でも差別無く平等で自由に、という基盤に立つと、自身のアイデンティティをしっかり持つためには、外からの影響や圧力に抗しなければならない場面があります。その時、心の中のバリアは、他を遮断したり差別したりするためではなく、自分を大切にして守る防護の意味もあるのではないでしょうか。表面的にはとても友好的で寛大に見える人達が実はそれほど相手を受け入れてはいない、という厳しい現実を目のあたりにしました。ひるがえって自分はどうか。私自身、どうにも受け付けないものがあり、これはまさしく、心のバリアの働きによるものだと、認めざるを得ません。しかし、前述のように、果たして心のバリアを取り去る事が必要でしょうか。できるできないは別として、自分自身の価値基準を確立した上で、かつ、バリアフリーを目指す、というのは、一体どういう事なのでしょう。
先入観を克服する努力(三和子・埼玉・パートナー有・32歳)
誰の中にも必ずバリアはあります。ない、と思っていても、普段の生活や交際範囲の切り口を変えると自分の中のバリアに気づきます。バリアとは先入観で、固定概念で、でも人間である以上、未知の存在に対してある程度拒絶したくなるというのは本能だと思います。本当のバリアフリーとは、自分の抱えているバリアを自覚した上でそれと向き合って、広い知識や、新しく得られた経験から感情をコントロールして、可能なら克服していこうとする努力のことだと思います。仮に自分が誰かからバリアを張られる対象になった場合でもそうです。特定のカテゴリに対して、仮に先入観が全くなかったとするなら、それを維持していかなくてはいけません。例えば特定の国、特定の職業の方々、特定のカテゴリなどに対する先入観を、私自身なるべく持たずに、柔軟なメンタルでいるようにいつも努力はしているのですが、知らないうちに持ってしまっているバリアは、我の強い私にとって、克服していくためのチャレンジです。