
共感はできないが理解はしているつもり(たみたみ・東京・パートナー有・30代)
どんなに苦しくても、行くしかなかった自分の子ども時代を考えると、今の子どもたちは弱いような気がします。でも、頑張って学校に行ってもどうしても教室にいられなかったり、いけなかったりして、でも帰ることもできず、校内をさまよってしまうような子どもも実際にいるのです。一方で、これに乗じてちょっとさぼり癖がついてしまったのではないか?と思う子どももいます。安きに流れるのが人間の性ですから。その区別が難しいと思います。でも、本当に「行きたいけどいけない」の子どももいるのです。
個々で話せばちゃんと話すこともできるし、人が嫌なわけではないけれど(友だちとも話せるのに)、教室にいられなくて自分自身で苦しんでいる子もいます。共感はできませんが、理解はしているつもりです。
わたしの場合の主な理由は……(moma108・東京・パートナー無・31歳)
高校に上がった当時、切にそう思いました。学校に行かないことは悪い、と思いながらも、体がいうこと利かないんですよね。主な理由は、高校に入ってからの競争が一段と厳しくなったこと、そのくせ、勉強一本に絞れず、部活を続けていたこと、などです。ばかばかしい理由だったとは思いますが、あの時、進路について、高校、大学生活についてどう振る舞えばいいのか、周囲の人たちが真剣に向き合ってくれれば、といまだに思っています。
時に医療の援助が必要か(ゆりぼたる・岩手・パートナー有・51歳)
親としては、不登校の子どもを持ったら、なんとかして登校させたいと努力するでしょう。なぜならば学校へ行くことが今のところ唯一の社会への窓口だと考えるからです。しかし、学校で教育を受けるだけではなく、もっと幅をもたせた教育機関がもっと一般的になってもいいのではないかと思います。精神的な面での不登校は医療の援助が必要でしょう。
親も忍耐力を養わなければ(suhama・福岡・パートナー有・44歳)
わが子が不登校に陥るなんて考えもしませんでした。親分肌で明るい子だっただけに、転校先でトイレに(大の方に)入っただけでからかわれたのが大変ショックだったようです。その市の小学校では、トイレの入口にドアがなかったのです(個室にはありますが)。気の合った友だちもおらず、近所の子ともなじめず、結局そのまま数カ月後に再度親の転勤で転居するはめに。幸い今の学校では少しは楽に過ごせているようです。
結局親や教師の考え方の柔軟性があるかないかが、子どもたちの友だちへの対応の仕方にもずいぶん反映されるように感じます。うまく子どもたちを引っ張れる先生は、マイナスの考え方を責めるのではなく、プラスの考え方に転換する方法を子どもにも、さらにはその親にも教えてくださいました。また、親も子どもの成長段階を、長い目で見る辛抱と忍耐力を養わなければならないと痛感しました。
毎日の大半が友だちとの生活(masako11)
大人は、会社で、人間関係でのトラブルや、いじめがあったとしても、異動や転職、上司に相談するなど、解決策はいろいろありますし、また、職場以外での友人がいれば、相談したり、気分転換もできると思います。しかし、子どもの場合は、行動範囲も、交友関係も狭いですから、学校での生活や友だち関係が毎日の生活のすべてとも言えると思います。また、子どもには、会社を転職のような自分で決められる選択肢もありません。学校が嫌ということであれば、逃げられる場所は家庭になりますから、登校拒否も子どもの選択肢としてあってもよいのでは? 解決策としては、クラスや教師、保護者も含めて、問題が起こる前に、普段から話し合いの場を設けることが大切だと思います。
小さな世界で生き視野も狭い子どもたち(由宇湖)
わたしはいじめにあっていたので学校へは行けない気持ちがわかります。いじめる側にとっては、ほんのわずかなことでも、それを受ける側にとってはとてつもない精神的苦痛ですね。子どもはまだ、小さな世界で生きているし視野も狭いので、それをクリアするための方法というのが「ない」と言えると思います。これが大人で、会社の中での出来事なら、転職するなり転勤願いを出してみるなり、部署の移動を希望してみるなり、自分に原因がないかと、逃げずに自己と向き合ってみたりと選択肢も拡がってきますけれど。いじめ以外の理由もあると思います。家庭環境は子どもの精神状態にとても影響しますし。わたしの場合はそれも少なからずありました。長くなってしまいましたが、つまるところ、理解できます。ということです。
元気を取り戻せる環境、相談できる誰か(mokekek・神奈川・パートナー有・32歳)
自分の小学生、中学生時代を思い返してみると、楽しかったと思う反面、友だちとの関係ではいつも緊張していたことを覚えています。集団生活の中では必ず起こることであり、それを乗り越えて成長していくものではありますが、仲の良い別の友人や帰っていける家庭という場所があったからこそ、切り抜けられたのだと思います。解決できるのは自分だけですが、元気を取り戻せる環境や相談できる誰かがいなければ、そのまま行かなくなってしまう気持ちになるのもわかります。
突然体が学校へ行けない状態に(myuchan・東京・パートナー無・26歳)
わたしは小学校3年生から中学卒業まで不登校児でした。不登校児の原因はさまざまだと思いますが、わたしの場合は学校にはまったく問題はありませんでした。いじめもありません。むしろリーダー的になれる存在でした。先生の対応に問題があって発生したわけではありません。しかし、突然体が学校へ行けない状態、暴れたくなるような症状が出たのです。児童精神科の先生とカウンセリングを受けながら、なんとか卒業日数だけ行けたという感じです。
それは、幼少時に母の愛を受けられなかったこと(母が病気で入院などのせい)や家の中の環境に起因するストレスだったのだと思います。高校からは順調に登校できるようになり、一応名の知れた大学も卒業できました。今不登校児で悩んでいるお子さん、親御さんはつらいでしょうけど、けっして未来は暗くないものです。
思い込みの泥沼からの脱出に苦労(ありる)
わたしは中学から高校にかけて自他ともに認める問題児でしたので、簡単に他人が「理解できる」なんて言ってはいけない、という程度には理解できています。自分の経験からいうと、学校に行きたくない、といううちはまだいいんですね。行きたい、行かなければ、と思っているのに、もう体が言うことを利かない、という状態になったときに、周りにはもう理解者がいなくなっている、助けを求められなくなっている(少なくとも自分ではそう思い込んでしまっている)というのが、本当に怖いのです。「もう誰もわたしのことを信頼してくれない、もう学校にわたしの戻る場所はない、みんなわたしがいなくなればいいと思っている」という思い込みの泥沼。そこから這い上がるのは、とても苦しいことです。
子どもが2人いますが、2人とも幸か不幸かわたしに似ています。同じ問題を抱える可能性はある、と今から覚悟し、「放っておく」のではなく、「見守る」ことを決めています。自分がもがいてきた経験が生きることで、わたし自身も、あの時代の自分をやっと救済してあげられる気がしています。
「学校にいけない」というつらさ(おしゃまなうさぎ・東京・パートナー無・27歳)
これはいじめを体験した人ならわかるのではないでしょうか。教室に入れない、学校にいけない気持ち、すごくわかります。もちろんいいことであるとは言えませんが、わたしの場合、「あいつ登校拒否だ」と言われるのが怖くて学校を休むこともできませんでした。いつも母に「あのときは学校にいかなくてもよかったのに」と言われます。「学校にいけない」というつらさがある、心が強い子どもばかりでもないという視点を、多くの人が持つ必要があるのではないでしょうか。
家柄、環境は非常に大切なもの(クリスティンソン愛・パートナー有)
わたしは小学校五年生で単身イギリスのボーディングスクールに入学しました。わたしは引きこもりになったわけではありませんが、日本の(公立)学校になじめなかったのは事実です。欧米ではひきこもりという言葉は聞いたことがありません。今まで不登校というと家庭や親の育て方に問題があるという印象でしたが、最近では引きこもる子どもの家庭は教育に厳しい場合も多く、けっして親が放任主義とは限らないことがわかってきました。個人的には、日本の受験制度に問題があるのではと考えています。
わたしが育った英国では、現在も階級制度が存在し、私立校(パブリックスクール)に行くのはあくまで貴族の子孫です。しかし労働者は、自分の環境を正面から受け入れています。現在の日本では家柄にかかわらず試験のみで入学を判断するため、極端な場合、暴力団の娘が入学し、両家の子どもは公立に行かざるを得ない場合も多いのです。そして環境になじめず、最終的には不登校になるケースも多いのです。
わたしはイギリスで自分と同じ価値観、家柄で育ったクラスメイトと話も合い、充実した生活を送りました。もちろん引きこもりの子にはさまざまなバックグラウンドがありますが、少なくとも良家の娘が必ず入学できる学校を日本にも確保すべきと思っております。家柄、環境は非常に大切なものであり、日本も伝統として残しておくべきだったものの一つと考えています。
するのが当然という考えが失われている?(てっしー・福岡・パートナー無・26歳)
人は必ず自分の侵害されたくないエリアを持っています。昔はそのエリアというのが画一的で学校は当たり前に行くという土台のようなものでしたが、今、たとえばインターネットで座りながらにして世界を見ることができますよね? そんな世の中で段々、「〜するのが当然」という考えが失われているのではないでしょうか? そうすると自分のパーソナルの領域を侵すものを学校に感じてしまった子どもが登校に抵抗を感じるようになるのはありえないことではないと思います。